Chapter 1: The Boy Who Fell from the Sun

血の匂いが、鼻腔の奥で燃えていた。

炭治郎は地を蹴った。夜の山道、杉の木立が月明かりを細く切り裂き、その合間を縫って鬼が跳ぶ。大きい。腕が四本あり、首が二つある。それでも炭治郎には、その鬼が何者であったか、かすかに嗅ぎ取れていた——油と、煤と、誰かを待ち続けた長い夜の匂い。

「ハアッ——」

息を、変える。

腹の底から空気を絞り上げるように、横隔膜を圧し広げながら、炭治郎は全集中の呼吸を織り成した。肺が灼けるように膨らむ。血管の隅々まで酸素が行き渡り、景色の流れが変わる——遅くなるのではない、自分が速くなるのだ。

日輪刀が月光を呑んだ。黒い刀身がわずかに赤みを帯びて輝く。

「日の呼吸——」

後ろから、ドオン、と地響きが来た。大地そのものが震えたような気がした。

鬼が振り向いた。炭治郎も振り向かずにはいられなかった。

山の頂から、光の柱が立っていた。

光と呼ぶのは、正確ではないかもしれない。太陽のようでもなかった。稲妻のようでもなかった。見たことのない何かが、あの世とこの世の境目のようなところで煮えたぎっていた。白くて、熱くて、音がなかった。音がないのに、耳の中で何かが鳴り続けていた——遠い人の名前を呼ぶような、低い震え。

鬼が、逃げようとした。

だが光は速かった。

それは山から溢れるのではなく、地面から噴き出し、空から落ちてきて、あらゆる方角から同時に押し寄せてきた。炭治郎は刀を握ったまま片足を踏み出した。まずい。逃げなければ——そう思ったとき、もう遅かった。

光が炭治郎を包んだ。

痛みはなかった。

熱もなかった。

ただ匂いが消えた。

杉の木の匂いが。腐葉土の匂いが。血の匂いが。鬼の滲ませていた、あの油と煤と孤独の匂いが、全部、一瞬で消えた。まるで鼻ごと失ったみたいに、世界が無臭になった。

炭治郎は叫ぼうとした。声も出なかった。

そして落ちた。

どこへとも知れない、果てのない場所へ。

——————

額に、痛みがあった。

炭治郎はゆっくりと瞼を開いた。

顔が地面に押しつけられている。土の匂いがする。土。土だ。地面の匂いだ。安堵と混乱が同時に込み上げてきて、炭治郎はそのまま数秒間、動けなかった。

指を動かした。土が指の間に入ってくる。

腕を動かした。体が動く。骨は折れていない。筋肉もおかしくない。

左手に、まだ日輪刀の柄を握っていた。

「……っ」

体を起こすと、目の前に道が伸びていた。

赤土を踏み固めた、幅の狭い道だ。両脇に灌木が茂り、その向こうには低い丘が重なっている。空は青く、空気はさらりとしている。秋の始まりのような匂い。日差しが穏やかで、影が短い。昼前か。

炭治郎はゆっくりと立ち上がり、周囲を見回した。

日本ではなかった。

杉林がない。電信柱がない。炭の匂いがしない。そして何より——あの山がない。あの、光の柱が立った山が、どこにも見えない。

「……ここは」

声が出た。自分の声だと確認して、炭治郎は少し落ち着いた。

服は無事だ。市松模様の羽織。白い帯。腰の鞘。鞘に収まった日輪刀。全部ある。体のどこにも傷がない。鬼と戦っていた山道で負いかけていた裂傷さえ、なぜか塞がっている。まるで時間が少し巻き戻されたみたいだと思った。

匂いを嗅いでみた。

この力は炭治郎が生まれ持ったもので、鍛錬で研ぎ澄ませてきたものだ。人の感情は匂いになる。怒りは刺すような硫黄に似た鋭さ、悲しみは湿った灰のような重さ、恐怖は鉄さびのような苦さ——そういうものを、炭治郎は空気の中から読み取ることができる。

今この場所の空気には、人の気配がなかった。遠くに何かの花の甘い匂い。土に水分が多い。虫の気配。鳥が鳴いている——鶯に似ているが、微妙に音が違う。

「どこかに人が、いないか」

独り言を言いながら、炭治郎は道を見た。

道は東西に延びている。どちらへ行くべきか。靴底で土を踏んだ。西の方が、わずかに踏み固められている感触がある。人が通った痕跡があるとすれば、西だ。

炭治郎は西へ歩き始めた。

歩きながら、考えた。

鬼殺隊の訓練で、世にはあり得ないことがある、と教わった。鬼は人を食い、血鬼術で現実を歪める。禰豆子は人の理から外れた道を歩いている。だから「あり得ない」という言葉に、炭治郎はあまり頼らないようにしていた。

起きていることは、起きている。

今自分は、どこか知らない場所にいる。道がある。植物がある。空気が読める。命に別条はない。ならばまず、人を探す。それだけだ。

丘の向こうから風が来た。その中に——

炭治郎の足が止まった。

匂いがした。人の匂いだ。しかも、複数。一人は遠い、馬に乗っている。体に染み込んだ線香の残り香がある。緊張した汗の匂い——いや、違う。緊張ではなく、純粋な驚きの匂いだ。混じり気のない、子どものような驚愕。もう一人は馬の傍で歩いている。疲れている。だが恐れていない。

「おい、あそこに——」

声が聞こえた。

炭治郎には意味がわからなかった。

日本語ではなかった。いや、日本語に似た音の並びでもなかった。全く知らない言語の響きで、それでも声の質から、年老いた男のものだと察せられた。戸惑いが滲んでいる。そしてもう一つの声——高く澄んだ、水が岩を打つような声が答えた。

「——」

言葉が、わからない。

丘の向こうから白い馬が現れた。

馬の上に、人が座っていた。

白い衣をまとった男だ。頭に金色の輪の飾りを頂いており、両の手を胸の前で重ねている。年齢は炭治郎より上だが、まだ若い。顔立ちが整っており、目に柔らかな光がある。その目が炭治郎を見て——見た瞬間に、大きく見開いた。

馬が止まった。

男は馬の上から炭治郎をじっと見た。

炭治郎も立ち止まって、男を見た。

白い馬の隣を歩いていた老人——腰の曲がった、懐かしそうな目をした老人が、馬上の男の袖を引いて何かを言った。声に、おびえと畏れが半々に混じっている。

馬上の男が口を開いた。

炭治郎には言葉がわからなかった。だがその声には、確かなものがあった。喜びだ。純粋な、疑いのない喜びの匂い——蜜柑の皮を剥いたときのような、甘くて少し痛いような明るさ。

男は両手を合わせて深く頭を垂れた。

そして、炭治郎の方を指さした。指の先が震えている。感動で震えているのだと、匂いでわかった。

「……あなたは」

炭治郎は言ってみた。日本語が、当然通じるはずもなかった。

男がもう一度何かを言った。今度は短く、問いかけるような口調だった。

炭治郎は自分の胸に手を当てた。

「竈門炭治郎です。えっと——炭治郎、と呼んでください」

男の目がさらに大きくなった。言葉の意味はわかるまい。それでも炭治郎が名乗ったことは伝わったらしく、男は今度は自分の胸に手を当てて、ゆっくりと名乗った。

「——三蔵、法師——」

三蔵法師。

炭治郎にはもちろん、その名が何を意味するかわからない。この世界で何者がその名を聞いて膝を折るか、何者がその名を恨んで牙を研ぐか、知る由もない。

ただ男の目の中に、全く揺るぎのない光があることが見えた。

恐怖がない。打算がない。炭治郎の見慣れた日本人とも、炭治郎が戦ってきた鬼とも違う匂いがする。人の善意というものがもし匂いを持つなら、これかもしれないと思った。春の朝の、まだ霜が残っている地面から立ち上る湿った草の香りのような。寒くて、澄んでいて、それでも確かに温かい。

三蔵法師が馬から降りた。

老人が「おやめください!」と慌てる様子が声の調子でわかった。だが三蔵法師は気にする様子もなく、赤土の道に降り立ち、炭治郎の前に立った。背丈は炭治郎と同じくらいだ。

改めて、両手を合わせる。

深く、頭を下げた。

炭治郎は瞬きした。

この所作は、わかる。礼だ。敬意を示す礼だ。日本のものとは形が違うが、意味は同じだとわかる。

それに、この人の匂いが——

「お前は今、なんで泣いているんだ」と、誰かに言われた気がした。よく言われることだった。炭治郎はすぐ泣く。今も泣きそうになっていた。理由が自分でもよくわからない。ただこの人の、何も疑わない礼の形が、炭治郎の胸の何かを突いた。

家族の顔が浮かんだ。

禰豆子の顔が浮かんだ。

炭治郎はそれを奥へ押し込んで、同じように両手を合わせ、深く頭を下げた。

三蔵法師が顔を上げた。目が、細くなった。笑っている。言葉がわからないのに、その笑顔が言っていることがわかった気がした——来なさい、という意味だ。ついておいで、という意味だ。

炭治郎の喉の奥が、少し詰まった。

老人が今度こそ明確に抗議の声を上げたが、三蔵法師は穏やかに何か言い返して、白い馬の手綱を取った。歩き出す。西へ向かって。

炭治郎は一歩、また一歩と、その後ろに続いた。

言葉がわからない。地名がわからない。どこへ向かっているかもわからない。

わかることが一つだけあった。

この人は、正しいものを持っている。言葉を超えた何か。炭治郎がこの十六年間、家族と竈の前で育ててきたものと同じ種類の何かを、この白い衣の男は当たり前のように持っている。

それだけで、今は充分だった。

赤土の道が西へ続いていた。空には雲一つなかった。炭治郎は日輪刀の柄を左手でそっと握り直し、家族への誓いを胸の奥で一度だけ確かめてから、見知らぬ世界の風景の中を歩いていった。

どこかで鳥が鳴いた。知らない鳴き声だった。

それでも、鳥の声は鳥の声だった。

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Chapter 1: The Boy Who Fell from the Sun — 炎刃西遊抄 ~鬼を斬る者、妖を救う者~ | GenNovel