波が、叫んだ。
闇の中でそれは叫んだ。山のように盛り上がり、夜空を裂き、港の防波堤へと叩きつけられた。霧が濃く、灯台の火は白い煙に喰われ、船乗りたちが恐れる夜がアルカディアの港を覆っていた。
そして、その波の中から何かが飛んできた。
ぐるんと一回転し、埠頭の石畳の上に、どさり、と落ちた。
麦わら帽子だった。いや、正確には、麦わら帽子をかぶった少年だった。帽子は奇跡的に頭の上に残り、少年はしばらく俯せのまま動かなかった。波しぶきが降り注ぐ。風が鳴る。霧が流れる。
それから、少年は顔を上げた。
口の端に、じわじわと笑みが広がった。
「生きてる」
ひとりごちて、モンキー・D・ルフィは両手をついて立ち上がった。全身びしょ濡れ、着ているものは塩と泥で固まり、額から細い血の筋が一本、鼻の頭まで流れていた。彼は血を手の甲で拭い、そのまま無造作に帽子を押さえ、霧の向こうに広がる港町を眺めた。
船はない。どこにもない。あの嵐の中で、船は——仲間たちは——
ルフィはしばらく海の方を向いていた。眉がわずかに寄り、黒い瞳が霧の中の暗闇を探った。波は叫び続ける。霧は答えない。
「必ず見つかる」
低く、しかし迷いなく言い、彼は海に背を向けた。今この瞬間沈んでいないなら、あいつらは浮いている。あいつらが浮いているなら、どこかで笑っている。そういうことだ、とルフィは思った。単純に。正確に。
それよりも今は、腹が減った。
港町は霧の中に沈んでいた。
石畳の坂道が暗闇の奥へ続き、両脇に石造りの建物が肩を寄せ合うように立ち並んでいた。窓という窓には鎧戸が閉まっている。嵐のせいか、それとも夜が明けてもそういうものなのか、ルフィにはまだわからなかった。軒先に吊るされた薄暗い提灯が、風にゆれるたびに濡れた石畳に光の染みを落とした。
歩き始めてすぐ、ルフィは気づいた。
静かすぎる。
霧の中を人が歩いている。何人もいる。市場へ向かうのか仕事場へ向かうのか、荷物を抱えた男や、子どもの手を引いた女が、石畳の上を足早に通り過ぎていく。しかし誰も声を出さない。誰も笑わない。目が合った男が、視線を素早く逸らした。まるで見られることそのものを恐れているように。
子どもが転んだ。
小石に蹴躓いて膝をついた男の子を、母親が即座に抱き起こした。「泣かないで」と唇が動くのをルフィは見た。声ではなく、囁きで。子どもはこらえた。石畳の上で、涙を飲み込んだ。
ルフィは歩きながら、その親子を振り返った。
おかしい、と思った。何がとは言えない。ただ腹の底で、何かが引っかかった。
坂道を登ると、道は広場に出た。
広場は人で満ちていた。市が立っているのか、野菜や布を並べた露店がいくつかある。しかしここでも声は低く、笑い声はなく、人々は互いの目を見ずに取引を済ませた。売る側も買う側も、まるで素早く終わらせるためだけに動いているように見えた。
広場の端を、甲冑の兵士が三人、一組で歩いていた。その歩き方は巡回のそれだった。目が鋭い。通行人が道を開ける。誰もがその三人組が通り過ぎるまで、息を細くして待った。
ルフィは真正面からその三人組を見た。兵士の一人と目が合った。兵士は立ち止まりかけ、しかしルフィの顔——麦わら帽子の下から無遠慮にこちらを見返す黒い目——を見て、何かを測るように一瞬止まってから、また歩き始めた。
ルフィは首を傾けた。
なんか変な町だ。
腹の虫が鳴った。ルフィは露店の方へ向かった。リンゴのような丸い果物が山積みにされた台の前で、老いた女が座っていた。ルフィが一つ手に取ろうとすると、女は素早く手をそこに重ねた。振り払うのではなく、ただ押さえる。
「お金は、ありますか」
声は低く、乾いていた。ルフィはポケットを探り、濡れた紙くずと石ころしか出てこなかった。正直に見せると、女はため息をついた。哀れみでも怒りでもない、諦めのため息だった。
「ないなら、いいです。行きなさい」
女は果物に布をかけた。取られる前に、という動作だった。
ルフィが立ち去りかけたとき、女が小声で言った。
「あなた、旅人ですか」
「まあ、そんなとこ」
「早く、出た方がいい。この町は」
それだけ言って、女は口を閉じた。兵士の一組が広場の向こうを横切るのを見て、首を縮めた。
ルフィは女を見た。それから兵士を見た。それから広場全体を見渡した。うつむいた顔。閉じた口。丸めた背中。どこを向いても、同じ形をしていた。人が人の形に縮んでいた。
重い町だ。
空気が重かった。石畳も、霧も、建物の影も、全部が何かを押さえつけるためにそこにあるようだった。何を、とは言えない。笑い声かもしれない。怒鳴り声かもしれない。あるいは、ただ息をすること。
ルフィは帽子のつばを軽く押し下げて、広場の奥へ歩いた。
正午近くになっても霧は晴れなかった。
坂道を上るにつれ、町の様子が変わった。建物が古く、大きくなり、石垣が高くなった。道幅が広くなり、人の数は減り、その代わり兵士の数が増えた。広場ではいくつかの道が一点に向かって収束しており、その先に、黒々とした城壁が立っていた。
王城だ、とルフィは思った。城というものは行ったことがある。いくつかの島で。たいてい中に面白いものがあるか、厄介な奴がいるかのどちらかだった。
城門は開いていた。重い鉄の扉が両側に開かれ、その手前の広い石畳の空間に、人だかりができていた。
野次馬の集まりではなかった。人々は輪を作ってそこにいたが、輪の外側に押し付けられているように見えた。前には出ない。後ろには下がれない。固まって、じっと見ている。息を詰めて、見ている。
輪の中心に、一人の青年が立っていた。
年の頃はルフィと大して変わらないか、少し上か。粗末な羊飼いの服——泥と草の染みがついた麻の上着、革のベルト、使い込んだ靴——を身につけていた。髪は乱れ、顔は土埃と汗で汚れていた。しかしその目は爛々と光っていた。燃えていた、と言う方が正確かもしれない。
青年は城門に向かって叫んでいた。
「ディオニス王! 出てこい! 聞こえているだろう!」
声は広場に響いた。ひびが入るような、真っ直ぐな声だった。うつむいた群衆の中を突き抜けて、城壁に当たって跳ね返ってくるような。
「おまえは民を喰い物にしている! 税を取り、命を奪い、恐怖で人を縛り付けている! そんなことが、いつまでも続くと思うな!」
城壁の上に兵士が現れた。何人も。槍の穂先が光った。
群衆は動かなかった。逃げるでも近づくでもなく、ただそこに固まっていた。しかし誰も青年を止めようとしなかった。止められなかったのか、止めたくなかったのか、ルフィにはわからなかった。
「ほう」
ルフィは声に出して言った。
隣に立っていた中年の男が、びくりと肩をすくめてルフィを見た。ルフィは気にせず、青年を見続けた。
「あいつ、何やってんの」
囁き声で尋ねると、男は青ざめた顔のまま唇だけを動かした。
「メロスという羊飼いです。どこから来たのか知りませんが、王城に向かって……あんな大声で……」
男の声は震えていた。ルフィは男から目を離し、また青年——メロスを見た。
兵士が数人、城門から走り出てきた。重い足音が広場に響く。群衆がさらに後ろへ引いた。メロスは逃げなかった。逃げるどころか、兵士たちの方へ一歩踏み出した。
捕まった。複数の兵士に腕をつかまれ、押さえ込まれた。それでも彼の目は城門の奥を、王城の深いところを見据えていた。口が動いていた。まだ叫んでいた。
人々が、その様子を見ていた。
じっと見ていた。
ルフィはその群衆の顔を、ゆっくりと見回した。恐怖があった。しかし恐怖だけではなかった。隠された何かが、その恐怖の層の下にあった。押さえつけられた何か。長い間、押さえつけられてきた何か。
それが何かを、ルフィはうまく言葉にできなかった。
ただ。
「面白い」
自然に、そう思った。
作り物ではない。この青年の怒りは本物だ。本物の怒りを持つ人間が、本物の城壁に向かって叫んでいる。そして周りの人間はみんな、その怒りを忘れかけていた何かのように見ている。
ルフィは帽子のつばを上げた。人だかりの端から、押さえ込まれながらもまだ口を開いている青年を見た。
こういう奴は嫌いじゃない。
むしろ。
むしろ、好きだ。
その時、城壁の上から一人の男の声が降ってきた。
「連れてこい」
たった四文字だった。しかしその声が広場に落ちた瞬間、群衆の間に走ったものがあった。恐怖ではなかった。恐怖はもうその人々の中に住みついていて、今更走るものではない。それは、もっと冷たいものだった。
諦め、だった。
ルフィはもう一度、群衆を見た。俯いた顔。固く結んだ口。何かを言いかけて、飲み込んだ喉。メロスという青年が引きずられていくのを、誰もが見ていた。そして誰もが、何もしなかった。
雨が降り始めた。
霧雨だった。音もなく、細かく、冷たく、広場の石畳を濡らした。ルフィの頬に当たった。麦わら帽子のつばからしずくが垂れた。
「腹も減ってるし」
ルフィは呟いた。
「仲間も探さないといけないし」
帽子を押さえた。人だかりがゆっくりと、水が引くように散り始めた。石畳の上に雨の染みが広がった。
「けど」
ルフィの目は、メロスが引かれていった城門の方を向いていた。重い鉄の扉が、ゆっくりと閉まろうとしていた。その向こうに、闇があった。
「なんか、放っておけない感じがする」
誰かに言ったわけではなかった。ただそう思った。腹の底から、そう感じた。
空腹と、濡れた服と、知らない町の石畳の冷たさの中で、ルフィは城門を見続けた。
それが閉まりきるまで。