車のヘッドライトが、霧の中で白く溶けた。
小春は後部座席から窓の外を眺め、暗くなった山道の輪郭が少しずつ定かでなくなっていくのを見ていた。助手席では母が地図アプリの画面を傾けたり戻したりしている。その操作に苛立ちが滲んでいるのが、小春には手に取るようにわかった。
「あの分岐を左に行ったのが間違いだったと思う」
「左で合ってる。ナビがそう言った」
「ナビは三十分前から圏外だよ」
父は答えず、ハンドルを握り直した。バックミラーに映る父の目が、道路標識を求めて左右に動く。しかし標識はもうどこにもなく、あるのは両側から迫る杉の暗さと、ヘッドライトに浮かぶ霧の層だけだった。
温泉旅館を出たのは夕刻であった。山奥の湯治場で二泊を過ごし、父が経路を誤ったのは帰路の最初の分岐においてだった。以来、道は細くなることはあっても広くなることがなく、一時間が経ち、小春は自分の靴の紐を二度結び直した。焦りというより、体の小さな場所に注意を向けていないと、胸の中で何かが膨らんでくるような気がしたのだ。
「パパ、同じカーブを二回曲がった気がする」
「そんなことはない」
「でも、あの倒れた標識、さっきも見た」
父は黙った。母がため息をついた。それは叱責でもなく諦めでもなく、ただの空気の動きのような息であったが、車内の温度がかすかに下がった。
山の秋は早い。窓ガラスの外、杉の梢が夜空を区切り、その切れ目に星ひとつ見えなかった。霧はいつのまにか下に向かって降りてきており、路面を舐めるように這い、ヘッドライトの光を散乱させている。小春は息を吐いて窓ガラスを曇らせ、指で丸を描き、それを消した。
道が右へ大きく折れた。その先に、明かりがあった。
最初は民家かと思った。しかし近づくにつれ、それが提灯の列であることがわかった。石畳の参道の両脇に、橙色の光を宿した提灯が整然と並んでいる。霧の中で灯は滲み、けれど消えず、湯気に似た何かが漂う中でただ静かに燃えていた。
父が車を停めた。
「温泉施設、みたいだな」
「こんな山の中に?」
「地図にないだけで、あるところにはあるんだ。昔ながらのやつが」
母が窓を開けた。秋の夜の冷気が入り込み、それと一緒に、硫黄の匂いが漂ってきた。温泉特有のあの鼻をつく匂い、しかしその奥に何か別のものが混じっていた。古い木材の匂いであるか、湿った石の匂いであるか、あるいはそのどちらでもない何かであるか、小春には判断がつかなかった。ただ、その匂いは山の温泉宿のそれとは微妙に異なり、もっと深いところから来ているような気がした。
「道を教えてもらえるかもしれない」
父がドアを開けた。
車の外に出ると、足の裏から冷気が上がってきた。小春は上着のファスナーを首まで引き上げた。石畳は霧に濡れてぬらぬらと光り、提灯の灯が石の表面に橙色の反射を落としている。参道の先に、大きな門があった。
門は木製で、古かった。古いというより、古さの概念がそこに凝縮されているような佇まいで、柱の木目が幾千もの年輪の記憶を蓄えているかのようだった。楣の中央に看板が掲げられており、墨の文字が読めた。
幽霧の湯。
「幽霧の湯」と父が声に出して読んだ。「知らないな。でも名前はいい」
「入るの?」と母が言った。その声には迷いがあった。
「道だけ聞けばいい」
父は門の方へ歩き始めた。石畳を踏む足音が、霧の中に吸われるように響く。母が後に続いた。小春はその場に立ち、二人の背中が提灯の列の間を遠ざかっていくのを見ていた。
門の構造が、どこかおかしかった。
何がおかしいのか、小春はすぐには言葉にできなかった。柱の高さが、人の身丈に対して不釣り合いに高いのかもしれない。あるいは屋根の反り具合が、見慣れた社寺のそれと微妙にずれているのかもしれない。とにかくそこには、普通の建物が持つはずの、人間の寸法に合わせて作られたという安心感が、なかった。
「コハル、来なさい」
母が振り返らずに言った。
小春は一歩踏み出し、また止まった。
門の向こうから、湯気が流れてきた。白く、濃く、それは霧とは質の違う柔らかさで漂い、肌に触れるとかすかに温かかった。硫黄の匂いがさらに強くなった。そしてもうひとつの匂い——先ほど感じた、古く深いところからの匂い——が、湯気に乗って鼻の奥に届いた。
父がすでに門をくぐっていた。母が門の内側に消えた。
小春は門の前に立った。
敷居を跨ぐ前の一瞬、彼女はそこに立ち止まった。足が止まったのは恐怖からではなく、それよりも根の深い何かによってであった。名前をつけるとすれば、躊躇というよりも、予感であった——来るべきことが来ようとしている感覚、それを認識してしまった瞬間の、息の詰まる静止。
後に、もし小春が誰かにこの夜のことを語ることができたとすれば、おそらく彼女はこの一瞬について最も長く話しただろう。両親が先に入ったこと、自分が後に続いたこと、そこに特別な選択があったわけではないこと——しかしそれでも、あの瞬間に立っていた自分は、確かに自分であったということを。扉が閉まる前の最後の一瞬、人が完全に自分自身であるその瞬間の、奇妙な充実を。
提灯の橙が、霧の中でゆらめいた。
小春は門をくぐった。
その途端、背後で風が動いた。振り返ると、霧が道を塞いでいた。来た道が、どこにも見えなかった。石畳は門の前で終わり、その先にあるはずの参道も、停めてきた車も、夜の山道も、白い霧の中に跡形なく消えていた。
小春は前を見た。
庭があった。庭の先に建物があった。建物は巨大で、複数の棟が連なり、それぞれの屋根から湯気が立ち上っており、あちこちの窓に灯がともっていた。灯の色が少しずつ違っており、青白いものもあれば深い琥珀色のものもあった。玄関の前に、父と母が立っていた。
母の横顔が、灯に照らされていた。
建物の大きな引き戸の前、白木の格子に手を触れながら、母はどこか遠い目をしていた。小春は急いで近づき、母の袖を引いた。母が振り返り、小春を見た。その目には、困惑と、それよりも強い何か別の色があった。
誘惑、と小春は後から思う。誘う側ではなく、誘われる側の、自分でもどうしようもない傾きが。
「入ろう」と父が言った。「中で道を聞こう」
引き戸が開いた。
誰かが開けたのではなかった。ただ、開いた。
中から湯気と温気が溢れ出し、冷え切った小春の顔を包んだ。温かかった。その温かさは、単純に心地よかった。疲れた体に、長時間の後部座席に、霧の中の不安に、その温かさは差し込んでくるように届いた。
広いフロントがあった。天井が高く、梁が太く、床は磨かれた板張りだった。その清潔さには、どこか息の詰まるような完璧さがあった。誰もいないように見えたが、いないわけではないことを、小春は肌で感じた。建物そのものが何かを知っているような、そういう静けさがあった。
受付のカウンターに、帳面が開いていた。
父が歩み寄り、カウンターに手をついた。
「すみません」
声が、高い天井に吸われた。
返事はなかった。しかし奥の廊下に灯が灯り、何者かがそちらから来る気配がした。小春は両親の後ろに立ち、廊下の先の暗がりを見つめた。
廊下の奥から、番頭と思しき老人が姿を現した。白い着物に黒の羽織、腰が少し曲がり、しかし足取りは確かで、老いた目に鋭さが宿っていた。
「いらっしゃいませ」
その声は、意外なほど柔らかだった。
「迷い込んでしまったのですが」と父が言った。「道を教えていただけますか」
老人は父を見た。それから母を見た。それから小春を見た。その目が小春のところで一瞬止まったのを、小春は感じた。目が合った。老人の目の中に、憐れみに似た何かがあった。憐れみであったかどうかはわからない。しかし少なくとも、そこには純粋な歓迎以外の何かがあった。
「道のことは、総支配人にお問い合わせください」
老人はそれだけ言い、一礼した。
「ひとまず、お食事でも」
廊下の奥に灯が連なり、その先から料理の匂いが漂ってきた。小春の腹が鳴った。恥ずかしかった。しかし父はもう歩き始めており、母もその後を歩き始めていた。
小春は動かなかった。
何かが、引き留めた。恐怖ではなかった。ましてや理性でもなかった。ただ、さっきの老人の目の中に見たもの——あの奇妙な、憐れみに似た、しかし憐れみとは少し違う何か——がまだ胸に引っかかっていた。
「お嬢さん」
老人が言った。
小春は顔を上げた。
「名前は、覚えておくことです」
意味がわからなかった。わからなかったが、その言葉は不思議な重さで胸に落ちた。覚えておくとは、どういうことか。名前を忘れる人間などいるだろうか。
「小春です」と彼女は言った。反射的に。
老人はかすかに頷いた。その頷きに何の感情も乗っていなかった。ただの確認のような頷きで、しかしそれがかえって、何か重大なことが確認されたような感覚を小春に残した。
廊下の先で、父が「コハル」と呼んだ。
小春は歩き出した。
廊下は長かった。進めば進むほど、外の冷気は遠くなり、硫黄と木材と、名前のつけられない古い時間の匂いが濃くなった。床板が微かにきしみ、その音が小春の足跡を数えるようだった。天井の梁に提灯が吊られ、橙色の光が揺れていた。
廊下の途中、窓から外が見えた。
庭があった。灯籠が並び、その間に石が置かれていた。
そして庭の向こうに、塀があった。
塀の内側で、何かが動いた。暗くてよく見えなかった。しかし動いたものが、四つ足であることはわかった。大きく、丸く、薄暗がりの中で白く浮かぶ、何頭もの生き物。
豚だった。
小春はそれを認識し、それから認識したこと自体を奇妙に思い、また歩き始めた。温泉宿が豚を飼っていることは、ありえないことではない。食用に飼っているのかもしれない。別に不思議なことではない。
そう思いながら、しかし彼女の足は少しだけ速くなっていた。
廊下の先で、父と母が待っていた。大きな障子の前に立ち、中から漂う料理の匂いに、二人とも少し顔が和らいでいた。旅の疲れが、温かさと匂いの前に少し解けているように見えた。
小春は二人の横に立った。
母が障子を開けた。
広い部屋に、料理が並んでいた。人の気配はなかったが、膳が三つ、丁寧に用意されていた。湯気の立つ椀、小鉢、色とりどりの皿。温かく、美しく、誰かが確かにそこに用意したことを示す、その用意周到さが、かえって小春には少し不自然に映った。
「座ろう」と父が言った。
「でも誰もいないよ」と小春は言った。
「旅館ではよくあることだ。後で番頭さんが来るんだろう」
父は膳の前に座った。母もその隣に座った。小春はその場に立っていた。
部屋の隅に床の間があり、掛け軸が一本かかっていた。墨で何かが書かれていたが、小春には読めなかった。読めない字体で、しかしその文字列が何かを主張しているように見えた。
父が箸を取った。
「パパ」
「なに」
「ここの食べ物、食べていいか、聞いてから方がよくない?」
「旅館に置いてある食事を断る理由はないだろう」
「でも」
「空腹だよ、コハル」
母が椀を手に取った。その手が、ほんの一瞬だけ迷った。迷い、しかし口に運んだ。
小春は見ていた。
見ながら、あの老人の言葉が頭に浮かんだ。名前は、覚えておくことです。その言葉の意味を、まだ小春は理解していなかった。理解していなかったが、その言葉がこれから意味を持つのだということを、どこか体の深いところで、彼女はすでに知っていた。
父が食べていた。母が食べていた。
小春は座らなかった。