刃が風を裂く音だけが、山に響いていた。
夜明けの稜線には、まだ星の名残があった。薄い紫の空に、東の端がわずかに白みはじめている。山肌を這う朝霧が、杉の根元に溜まってはゆっくりと流れていく。その霧の中で、一人の少年が剣を振っていた。
一歩。呼吸。
上段から袈裟。刃が霧を割り、冷気が頬をなでる。
また一歩。また呼吸。
竈門炭治郎は止まらなかった。
夜半から降りていた。眠れなかったのではない。眠ることが、なんとなく怖かった。夢の中では、いつも誰かが死ぬ。自分が殺した者たちが、恨んでいるわけでもなく、ただ静かな顔をして立っている。そういう夢を見るのが、最近うまくできなくなっていた。鬼殺隊の最後の戦いを終えてから、もう半年が経つというのに。
炭治郎の右手の甲には、分厚い剣だこがある。指の付け根からまめがつぶれてかさぶたになって、また新しいまめができて――そういう年月が積み重なった手だ。その手が、今、軽く震えていた。疲労ではない。なにか別の、うまく名前をつけられないもの。
息を整える。
鬼を殺すのは、使命だった。鬼になった人間を、元の苦しみから解き放つのが、炭治郎なりの誠実さだった。そう信じていた。今も信じている。でも信じていることと、心が静かであることは、別の話だ。
刃を正眼に戻す。深く吸う。
全集中。
水の呼吸、壱ノ型。
踏み込んだ瞬間、山が揺れた。
いや。揺れたのは山ではなかった。
炭治郎の足が、次の踏み込みを捉えるより早く、空気そのものが変質した。刃の先から半歩ほどの空間が、裂けた。
音はなかった。
ただ光があった。光、というよりも――すべての色がいっぺんに消えるような白さ。炭治郎は目を細めようとしたが、それより先に体が前へ引かれていた。風ではない。重力でもない。何か巨大なものの意志のような引力。
「なっ――」
声が出た瞬間、足の下から地面が消えた。
冷気。無音。
そして落下とも浮遊ともつかない感覚が、炭治郎の意識を飲み込んだ。
―――
最初に届いたのは、臭いだった。
意識が戻る前に、鼻が動いていた。
川。泥の混じった、大きな川の臭い。それから線香。どこか遠くで燃えているような、甘くて重い煙の臭い。草の青臭さ。馬の糞。燃え残った薪の灰。そして――
炭治郎の眉が、わずかに寄った。
妖怪の気配。
はるか遠くに、でも確かに。人間のものではない、ねじれたような臭いが風に乗って届いてくる。鬼ではない。炭治郎がよく知っている鬼の臭いとは、微妙に質が違う。もっと古いような、土に深く根を張ったような異質さ。
まだ目は開いていなかった。
顔が、地面に押しつけられている。土の感触。砂利が頬に食い込んでいる。唇に砂の味がする。体のあちこちが軋む。後頭部の奥が重い。
どこだ、ここ。
そう思った直後、脇腹に何かが当たった。
ごつ、と。
「うーん? 死んどる? 死んどるやろこれ。ほれ、起きんか」
太い声だった。男の声だが、妙ななまりがある。呑気というか、事態の深刻さをまるで理解していないような、そういう声の質。
またごつ、と当たる。棒のようなものだ。
炭治郎は目を開けようとした。まぶたが重かった。でも動いた。
目の前に、まず泥色の地面があった。次に、足が見えた。大きな、裸の足だ。足の指の間に草がはさまっている。その足は人間のものではなかった。肌の色も、骨格の比率も、なにかが根本的に違う。
視線を上げる。
ぶつぶつとした鼻。大きな耳。丸々とした体。どこか豚に似た顔立ちをした、巨大な男が、炭治郎の脇腹を長い棒でつついていた。目が合うと、その顔が「あ」という表情になった。
「お、生きとった。沙悟浄、こいつ生きとるで」
声をかけた相手を探して、炭治郎はさらに視線を動かした。
少し離れたところに、もう一人いた。こちらは黙って立っている。赤みがかった肌。浅黒い目。体のそこここに、かすかな傷跡が刻まれている。頭巾のようなものをかぶり、首には――
炭治郎は目を細めた。
首には、数珠ではなく、骸骨を連ねたような飾りがかかっていた。
その男は、炭治郎の目を見た。何も言わなかった。ただ見た。
その沈黙には、臭いがあった。炭治郎の鼻は、自分の意志に関係なく感知してしまう。この男の臭いは、深い水の底のような重さを持っていた。冷たい水だ。そして水の中に、長い時間をかけて沈殿した何か。悲しみ、と炭治郎は思った。理由を問わなくても分かるような、年季の入った悲しみの臭い。
「起きられるか」
声をかけてきたのは、豚に似た男のほうだった。今度は棒でつつかずに、面倒くさそうに、でも乱暴ではなく言った。「倒れとったんやで、道の真ん中に。危ないやろが」
炭治郎は両手をついて、体を起こした。
全身が重い。剣が腰にある。それだけ確認した。よかった。武器がある。
立ち上がったとき、めまいがきた。一瞬ぐらついたが、踏ん張った。
周囲を見た。
山道だった。けれど、先ほどまで炭治郎が立っていた山ではない。杉林ではなく、赤みがかった岩肌に、見たことのない種類の木が生えている。道の幅が広い。踏み固められた黄土色の地面が、なだらかに続いている。遠くに川が見えた。大きな川だ。靄がかかっていて、対岸が見えない。
川のそばに、天幕があった。焚火の跡。荷物。白い馬が一頭、杭につないである。
野営地だ。
「おい、意識あるか? どっから来た、お前」
豚に似た男が続けた。炭治郎は彼を見た。それから、川のほうを見た。立ち込める霧の向こうに、聞いたことのない鳥の声がしている。
その鳥の声が、炭治郎にとっての最終確認だった。
日本の山にはいない鳥だ。
ここは、どこか。
もう一度、深く息を吸った。鼻が一瞬で膨大な情報を拾い上げる。川の臭い。焚火の灰。煮炊きした食べ物の残り香。それらはどれも、炭治郎が知っている臭いとは微妙にずれていた。使っている薬味が違う。燃やしている木の種類が違う。線香の配合が違う。川の臭いに混じる植物の種類が違う。
妖怪の気配は、もっとはっきりと感知された。遠い。でも確かにある。一つではない。いくつもある。
炭治郎は、じっとりと冷たい確信が背筋を走るのを感じた。
ここは、自分の知っている場所ではない。
日本ではない。
「お前、名前は」
豚に似た男がまた言った。今度は少し声のトーンが変わっていた。どこか試すような、でも警戒しているほどでもない。炭治郎は男を見た。巨大な体で、首には長い棒を担いでいる。目は小さいが、その奥に人間的な感情がある。怯えではなく、好奇心と、少しの面倒くさがりが混じっている。
「竈門炭治郎といいます」
炭治郎は言った。できるだけはっきりと。
男が眉を上げた。「なんや、喋れるやんか。炭治郎? 変わった名前やな。俺は猪八戒。こっちが沙悟浄」
炭治郎は猪八戒という名の男に頭を下げた。それから沙悟浄に向かっても、同じように深く頭を下げた。
沙悟浄は眉をわずかに動かした。何も言わなかったが、その沈黙の質が少しだけ変わった。
「すみません、ここはどこですか」
炭治郎は言った。
「どこって、道の真ん中やろ。見れば分かるやんか」
「国は」
「唐土やが。唐の国。長安から西へ、もうだいぶ来たけどな」
唐。その言葉は、炭治郎にも聞いたことがあった。はるか大陸の、古い国。今の日本にとっての異国。
「どっから来たんや、本当に」
猪八戒が続ける。炭治郎は正直に答えるべきか一瞬迷ったが、迷う理由がないと気づいた。
「分かりません。気づいたら、ここにいました」
「ふうん」猪八戒は信じていないのか信じているのか、曖昧な顔をした。「腹へっとるか? 飯の残りがあるで」
その声に含まれているものを、炭治郎は感じた。乱暴ではない。むしろ面倒くさがっているように見せて、実は親切を差し出したがっている。その落差に、わずかに胸が温まる。
でも今は、それよりも確かめなければならないことがあった。
「少し待ってください」
炭治郎は歩いた。野営地のほうへ。天幕が見える。白い馬が炭治郎を見た。鼻を鳴らした。
野営地の中心に、一人の男が座っていた。
年の頃は、壮年と言っていい。白い法衣をまとい、頭には高い冠のような帽子をつけている。背筋がまっすぐだ。目を閉じて、何かを口の中でつぶやいている。経を読んでいるのだと、炭治郎にはすぐに分かった。その声の低さと、呼吸の深さから。
男が目を開けた。
炭治郎と目が合った。
穏やかな目だった。驚いていたが、それを過剰に表さない落ち着きがあった。炭治郎のことを見て、何かを感じ取ろうとするような、静かな集中が目の奥にある。
炭治郎は立ち止まって、深く礼をした。
「突然の無礼をお許しください。竈門炭治郎と申します。気づいたらここに倒れていました。悪意はありません」
自分の言葉が、この男に通じるかどうか分からなかった。でも言葉というのは、内容だけが伝わるものでもない。炭治郎はそう思っていた。声の温度も、体の向きも、言葉だ。
男は炭治郎の礼を受けて、静かに合掌した。
「三蔵と申します」
通じた。
低く、穏やかな声だった。
「怪我はありますか」
「少しめまいがします。でも歩けます」
三蔵法師と名乗った男は、炭治郎の顔を、剣を、手を、順番に見た。その目が、手のところで止まった。炭治郎の右手。剣だこと傷跡だらけの、戦い続けてきた手。
男の顔に、何かが過ぎった。
憐れみではなかった。もっと複雑なもの。何かを認識するときの、深い関心。
「遠くから来られましたか」
「はい」炭治郎はもう一度川のほうを見た。靄の向こう。どこまで行っても、自分の世界には戻れないだろうと、今は思っている。「とても遠いところから」
焚火の灰が、朝風に吹かれてかすかに舞った。川の鳥がまた鳴いた。
炭治郎は、その鳥の声を聞きながら、もう一度息を吸った。肺の奥まで空気を満たす。水の呼吸の、基礎の基礎。静かにする。感じる。考える前に感じる。
妖怪の臭いは、まだ遠くにある。
でも確かに、そこにある。
この世界にも、人ならぬものがいる。
炭治郎は剣の柄に触れた。手をのせるだけで、抜かない。この癖は、長い戦いの年月がつけた癖だ。確かめるためのしぐさ。今ここに剣があるか。今ここに自分はいるか。
いる。
剣がある。
それだけあれば、どこでも始められる。
そう思ったとき、遠くから声が聞こえてきた。
「師匠! 怪しいやつが迷い込んどるぞ!」
甲高い、よく通る声だった。威勢がいい。どこか子どもっぽい自信に満ちている。
炭治郎が声のほうを向くより早く、何かが空から降ってきた。降ってきた、というより、現れた。一瞬前まで何もなかった場所に、ぽん、と軽い音とともに男が立っていた。
小柄だった。炭治郎より背が低い。だが体の中心に、圧倒的な密度がある。鉄の塊のような気配だ。如意棒と思しき長い棒を肩に担ぎ、毛皮の服をまとっている。顔は鋭く、目が尖っている。猿に似た顔立ち。
その目が、炭治郎を捉えた。
上から下まで。一秒も経たないうちに。
「なんや、ただの人間やないか」
男は言った。炭治郎への関心をすっぱり切り捨てるような言い方だった。
炭治郎は男を見た。男の臭いを感じた。
強い。これは純粋な強さの臭いだ。鉄と風と、どこか硬い岩の臭い。それから――炭治郎はもう少し細かく嗅いだ。傷の臭い。古い傷だ。肉体的な傷ではない。もっと違う種類の。石の匂いの奥に、細くて鋭い孤独の臭いが混じっている。
「孫悟空というんですか」
炭治郎は聞いた。猪八戒が男の名前を呼んでいなかったのに、なぜそう聞いたのか、自分でもうまく説明できなかった。この人はそういう名前の響きをしている、という直感だ。
悟空はわずかに眉を上げた。
「誰に聞いた」
「聞いていません。なんとなく」
悟空はしばらく炭治郎を見た。その目に、微妙な変化があった。馬鹿にするような色はあるが、完全に侮っているわけではない。何かを測っている。
「ふん」
短く言って、悟空は三蔵のほうへ歩いた。「師匠、どうするんですか。こんな流れ者、連れていくわけにも」
「縁というものは」三蔵は静かに言った。「自分で作るものではありません」
悟空は何か言いたそうだったが、師匠の声の質を聞いて、少し黙った。
炭治郎はその二人のやりとりを聞きながら、改めて周囲を見渡した。
川。靄。知らない土の色。知らない鳥の声。知らない線香の臭い。
自分の世界のどこでもない。
姉や妹の顔が浮かんだ。仲間たちの顔が浮かんだ。胸の中央に、鈍い痛みが走った。帰れないかもしれないという恐怖は、今朝の光の中でもう一度ちゃんと感じた。
でも今は。
炭治郎はまた深く息を吸った。
妖怪の臭いは、西の方角から来ている。
三蔵たちの行こうとしている方角と、同じだ。
炭治郎は剣から手を離した。