シャンパンの泡が、細長いグラスの底から頂点へと昇っていく。ひとつ、またひとつ。消えては生まれ、生まれては消える。
光一はそれを見ながら、右手の指先でテーブルの縁を、聞こえないほど静かに、三回叩いた。
「ねえ、ヒカルくん」
麻生由佳子の声は、三杯目のドン ペリニヨンを過ぎたあたりから少しずつ甘くなっていた。四十二歳、不動産会社の役員。毎週金曜の指名客。「源」へ通い始めて八か月。本日の売上はすでに六十万を超えている。
「なに?」
光一は彼女の方へ上体を傾けた。ほんの数センチ。でもその数センチが、由佳子の肩の力を抜かせるのを、彼は知っていた。
「こんなに若くてかっこいいのに、なんでホストなんてしてるの。もったいなくない?」
定番の質問だ。彼が「源」で働き始めて七年、何百回と投げかけられてきた問い。答えはいくつかのバリエーションがある。今夜の由佳子には、Bパターンがいい。
「由佳子さんみたいな人に会えるから、じゃダメですか」
彼女の笑い声がソファに溶けた。ボックス席の向こうでは、DJが新しいトラックをかけ始めている。低音が床から這い上がってきて、足の裏に振動が届く。エルメスのスカーフを首に巻いた女が、隣のテーブルで涙をこらえている。新人ホストの堂本が、その肩にそっとタオルを差し出している。悪くない動きだ、と光一は視野の隅で評価した。
「ねえ、もう一本、シャンパン入れようかな」
由佳子がメニューを引き寄せようとした。
「待ってください」光一は彼女の手の甲に、指先で触れた。触れた、というより、掠めた。「今夜は僕が選ばせてもらえませんか。由佳子さんの好みで、一本決めたいんです」
「好みって?」
「どんな夜を過ごしたいか。華やかに終わりたいのか、静かに深くなりたいのか」
由佳子の目に、何かが灯った。光一はそれを見た。それが本物の火か、アルコールの反射かを、もう判断しなくなって久しかった。
「……静かに、かな。今夜は」
「じゃあクリュッグにしましょう」
彼は指を一本立て、スタッフに向ける。合図だけで伝わる。「源」では言葉より沈黙のほうがよく機能する。
店名の「源」は、店を立ち上げた戸川蓮二が「すべての欲望の源」と名付けたものだという。ただし当の戸川は、そんな大仰な意味を込めたというより、単に音が良かったからと、光一に酒の席で笑いながら話したことがある。いずれにせよこの店は今、六本木でもっとも予約の取れないホストクラブとして知られていた。会員制、完全指名制、最低チャージは一夜で十万円から。
光一――「ヒカル」というホスト名で呼ばれる彼は、入店六年でナンバーワンの座を取ってから、一度もその位置を明け渡したことがない。
ボックス席に新しいボトルが届く。ソムリエのような仕草でコルクを抜き、由佳子のグラスへ金色の液体を注ぎながら、光一は自分の動作を、どこか遠い場所から眺めていた。
この感覚は、いつ頃からあっただろう。
上手い。滑らかだ。由佳子の呼吸が変わった。肩甲骨が少し後ろへ引いた。もう一時間は帰らない。
舞台の上から客席を俯瞰する演出家のように、彼は今夜の自分の演技を採点していた。満点に近い。感情の揺れがない分、精度が高い。
だが精度の高い演技には、演じる自分がいない。
光一はグラスに口をつけた。クリュッグの泡が舌の上で弾けて、消えた。
午前三時過ぎ、最後の客が帰った。
ボックス席に散らかったグラスを片付けながら、スタッフの誰かが鼻歌を歌っている。ミラーボールはまだ回っていて、その光の粒が空のソファに降り積もっている。光一は上着を一枚羽織って、店の奥へと歩いた。
バックヤードへ続く廊下は、天井が低く、照明がひとつ切れかけていて、三秒おきにちかちかと点滅する。ここだけが「源」の唯一、演出のない場所だった。壁には去年の売上グラフと、アルバイト募集の張り紙と、誰かが貼ってそのままになっているだるまのシールがある。光一は廊下の突き当たり、非常口のドアにもたれかかって、スマートフォンを取り出した。
外では雨が降っている。非常口の隙間から、湿った夜気が差し込んでくる。
ロック画面を解除して、Instagramを開く。習慣だ。何かを探しているわけではない。特に見たいものがあるわけでもない。指が動く。指が止まる。指が動く。
スクロールが、止まった。
写真は暗かった。撮り方が上手いとか、フィルターが洗練されているとか、そういう話ではない。ただ、暗かった。
窓ガラスに伝う雨粒。その向こうに滲む、橙色の街の灯り。手前に、横顔。ほとんど影だけで構成された輪郭。睫毛の先がわずかに光を受けていて、それだけが辛うじて、そこに人がいることを示していた。
キャプションには、一行だけ。
「まだ、ここにいる」
それだけだった。
光一の親指が、次の投稿へ行こうとして、止まった。
何かを感じたのか、と問われれば、答えに詰まる。感動でも共鳴でも、そういう名前のつくものではなかった。もっと原始的な、まるで暗い部屋で見知らぬドアノブに触れたような、そういう感触。
アカウント名は「shion_official」。フォロワー数、10.2万。
プロフィール画像は花だった。咲きかけの、まだ開ききっていない、小さな紫の花。
光一は廊下の蛍光灯がまたちかちかと点滅するのを見た。壁に張られただるまが、片目だけ開いた顔でこちらを見ている。
彼はアカウントのページへ飛んだ。並んだ投稿を、上から順に眺めた。きれいな朝食。カフェのラテアート。夕暮れの東京タワー。どれもよく撮れていて、どれも申し分なく、どれも彼の目をそこに引き留めなかった。
ただ、あの一枚だけが違った。
「まだ、ここにいる」
光一は一度アプリを閉じた。ポケットにスマートフォンをしまった。非常口のドアを少し押し開けて、冷たい外気を肺に入れた。六本木の夜が終わりに近い。遠くでタクシーが走っていく。どこかのビルの看板が、雨に濡れてオレンジ色に輝いている。
彼はもう一度、スマートフォンを取り出した。
Instagramを開いた。
あの写真まで戻った。
「まだ、ここにいる」
由佳子の目に灯った火を、今夜も彼は判定しなかった。誰の目に灯る何かも、もう長いこと、本物かどうかを問う気になれなかった。
だがこの横顔は、何も求めていなかった。
求めていない人間の孤独は、求めている人間のそれより、ずっと深いところに沈んでいる。光一はそのことを、理屈ではなく皮膚で知っていた。
ちかちかと、廊下の蛍光灯が鳴っている。
彼はしばらくの間、その画像から目を離せなかった。