Chapter 1: The Road That Folded Inward

気がついたとき、道は既に細くなっていた。

正確に言えば、気がついたとき、という表現自体が正しくないかもしれない。道が細くなっていく過程を、千草はどこかで感知していたはずなのだ。足の裏が土の感触を覚え、草の露が足袋に滲み、左右の木々がじわりと間隔を縮めていく、その一つ一つの変化を、身体は確かに受け取っていた。ただ意識だけが、何かに引き摺られるようにして、それらの信号を後回しにし続けていた。人間というのは、こんなにも容易く、自分が既に深く入り込んでいることに気づかぬものか、と千草はのちにそう思うことになるのだが、その晩の千草にはまだ、のちに思う、という悠長な時間軸は存在しなかった。

灯籠の火が見えた。

一つではなかった。二つ、三つ、そして気づけば左右の地面に沿って、霧の中へと点々と連なっていた。どれほど古いのかわからない石灯籠が、苔むした肩を夜の中に沈めながら、ただ静かに燃えていた。火の色は橙というより、もう少し白みがかっていて、それが霧と混ざり合うと、淡い光の滲みが道の輪郭をかろうじて示すだけになった。千草はその光を頼りに足を進めた。頼りにする、という選択をした記憶もなかったが、気づけばそうしていた。

足元の石畳は濡れていた。雨の記憶はなかった。霧がこれほど濃ければ、降らずとも石は濡れるものらしい。一歩ごとに、靴底と石の間から微かな水音がして、それが静寂の中でひどく大きく聞こえた。左手の木立の奥では、何か小さなものが枝を揺らして動いたが、姿は見えなかった。千草はそちらを見ないようにした。見ないのは恐怖からではなく、見ることによって何かが変わってしまうような予感があったからだ。霧の中では、注意を向けるという行為そのものが、対象を招き寄せる気がした。

やがて、石畳が終わった。

終わったのではなく、何かが始まった、と言うべきかもしれない。石畳の先に、木造の門が立っていた。柱は黒く、雨と年月に磨かれて鈍い光沢を持っていた。門の上には木の扁額がかかり、霧にかすんだ灯籠の光では文字がよく読めなかった。千草は数歩近づいた。霧廻り湯、と書いてあった。湯屋だ、と千草は思った。湯屋だ、という認識と同時に、自分がなぜここへ来たのかという問いが、奇妙な遅れをもって追いついてきた。だが問いは形になりきらないうちに、霧の中へ溶けた。

門は開いていた。

内側から温かい湯気が流れ出ていて、千草の顔にそっと触れた。硫黄でも塩でもない、もっと中性的な、木と湿気と微かな花の混じった匂いだった。その匂いを嗅いだ瞬間、千草は何かを思い出しかけた。何かを、というだけで、それが何なのかは判然としなかった。ただ胸の奥に、見覚えのある気配のようなものが、一瞬だけ灯って消えた。

敷地に足を踏み入れると、砂利が鳴った。乾いた、均質な音だった。左右に低い植え込みが続き、その向こうに何棟かの建物が霧の中にひっそりと形を浮かべていた。正面の建物が一番大きく、欄干に提灯が吊り下がって、橙色の明かりを下へ落としていた。千草はその明かりへ向かった。向かうことを選んだ、というよりも、それ以外に向かうべき場所がなかった。

玄関の引き戸は重かった。両手で引いて、ようやく音を立てながら開いた。

中は思ったより広かった。板張りの土間に、磨き込まれた上がり框が続いていた。壁には簑笠が幾つかかかっていて、その下に下駄が整然と並んでいた。天井は高く、梁が横切り、梁の隙間から湯気が薄く漂っていた。硫黄ではなく、やはりあの混じり気のない、木と湿気の匂いだった。

「おいでなさいましたね」

声は千草の正面から聞こえた。だが誰もいなかった。と思ったのは一瞬で、上がり框の奥の暗がりから、小さな老婆がすうと姿を現した。小さい、というのは背丈のことだが、小さいという印象は体格からではなく、その静けさから来ているようだった。動かない水が持つ質量、とでも言えばよいか。老婆は白い着物の上に濃藍の割烹着をつけ、白髪を後ろで固く結っていた。顔の皺は深く、だが皺の間から覗く目は若かった。若い、という形容も正確ではない。年齢という尺度が適用されない目、と言う方が近かった。

「霧廻り湯へようこそ」

老婆は言った。歓迎の言葉だったが、歓迎の温度は含まれていなかった。事実の確認に近いトーンだった。千草はどう応じればいいか分からず、黙って立っていた。

「泊まりですか」

「いいえ、あの、私は」千草は口を開いたが、続きが出てこなかった。実際、自分がどういう用向きでここに来たのか、説明する言葉を持っていなかった。道に迷って、灯籠の光を辿ってきた、というのが事実の輪郭だったが、それを述べることの奇妙さが、言葉を喉の手前で止めた。

老婆は千草の逡巡を待たなかった。

「では、働きに」

疑問ではなく、確認だった。千草は否定しようとして、否定の根拠を持っていないことに気づいた。否定するためには、ここではないどこかへ行くつもりだった、という意志が必要だったが、千草にはその意志の記憶がなかった。霧の中の道は、始まりを千草に明かさなかった。

老婆は千草の返答を待たず、懐から小さな帳面を取り出した。帳面は古く、表紙が黒ずんで、角が丸くなっていた。老婆は帳面を開いて、筆を取った。筆は既に墨を含んでいた。

「お名前は」

「千草です。千草という字を書いて、ちぐさと読みます。千に」

「千草」

老婆は千草の言葉を引き取り、ゆっくりと繰り返した。そして帳面に何かを書き付けた。筆の先が紙の上を動く音がした。湿った、微かな音だった。

老婆が帳面を閉じた。それだけだった。一つの動作が完結したように、老婆は筆を置いた。

千草は、何かが終わったことを感じた。何が終わったのかは分からなかった。老婆の顔を見た。老婆は千草を見ていたが、千草が見返したとき、視線はもう千草の顔ではなく、その少し奥の方に向いているようだった。

「草さん」と老婆は言った。

千草は聞き流した。草、というのは自分のことではないと思ったからだ。

「草さん」

もう一度、同じ温度で言われて、千草はようやく気づいた。気づいた、というのは正確ではない。気づく以前に、身体が先に応答していた。千草の口が、はい、と言いかけた。言いかけて、止まった。

「私の名前は千草です」と千草は言った。

「こちらでは草さんとお呼びします」

老婆の声に変化はなかった。反論を予想していたわけでも、封じようとしていたわけでもなく、ただ事実を述べていた。窓の外は霧、という風に。

「千草の千は」千草は続けた。千、という字には意味がある。千草という名前には、両親が選んだ理由がある。その理由を千草は正確には知らなかったが、知らないことと、なかったこととは違う。「千という字を取ってしまったら」

「草さん」

三度目だった。今度は千草の言葉の途中で、それ以上の言葉を必要としないという事実として差し込まれた。

千草は黙った。黙ることは同意ではなかった。同意でないことを示すために言葉を尽くす方法を、千草はその瞬間持っていなかった。霧の道と同じだった。拒否するためには、引き返すための道が要るのだ。

老婆は鶴、と名乗った。ただそれだけ言って、名乗りの解説はなかった。千草と同じく、ただの音として差し出された。

鶴は板の間へ上がるよう千草に言い、脱いだ靴を揃えることを指示した。指示は簡潔で無駄がなく、千草がそれに従っている間、鶴はすでに次の動作に移っていた。板の間の奥から木綿の着物と割烹着を取り出し、千草に渡した。小さく畳まれていて、においは古いが清潔だった。

「着替えて、こちらへ」

廊下は長かった。板張りで、歩くたびに軽く軋んだ。廊下の両側に障子が続いていて、その向こうから湯気の気配がした。一枚の障子に細い光の線が漏れていた。千草は障子の向こうを想像しようとしたが、霧と湯気が想像を溶かした。

案内された部屋は小さかった。三畳ほどで、窓は一つ、外は霧だった。押し入れから煎餅布団が一組取り出され、端に畳まれて置かれた。

「明日の朝、塩さんが仕事を教えます」

「塩さん」と千草は繰り返した。

「古い奉公人です。よく聞いて、よく覚えること」

鶴はそれだけ言い、部屋を出た。障子が静かに閉まった。

千草は部屋の中心に立ったまま、布団と窓と障子を順番に見た。布団は薄かった。窓の外の霧は動かなかった。障子の向こうの廊下は静かだった。

着替えた。木綿の着物は少し袖が長かった。割烹着の紐を後ろで結ぼうとして、うまくできなかった。もう一度やって、今度はできた。

部屋の隅に小さな木棚があり、棚の上に何もなかった。千草は自分の着てきた服を畳んで棚の上に置いた。置いてから、それらを持っている意味について考えた。服は千草のものだった。千草の名前が刻まれているわけではないが、千草が選び、千草が着てきたものだった。だが今ここで、千草という名前は草に変わっていた。ならばこの服は、今、誰の服か。

問いは答えを持たなかった。

布団を敷いた。薄かったが、床は冷えていなかった。湯屋の床は年中温かいのかもしれない、と千草は思った。横になると、天井の木目が目に入った。節が一つ、ちょうど真上にあって、暗い穴のようだった。

廊下の向こうで、誰かが歩く音がした。足音は軽く、足袋の擦れる音だった。近づいて、遠ざかり、消えた。

千草は天井の節を見続けた。

自分の名前は千草だ、と思った。思ったとき、その言葉は脳の中で正確に鳴った。千草。千に草。二つの文字が揃っていた。揃っていることを確認する必要があるとは、昨日まで思わなかった。確認しなければならないということは、すでに確認が必要な状況に入った、ということだ。

霧の外に何があるか、千草には分からなかった。霧の中に入る前に何があったか、思い出そうとした。道があった。道の前に、もう少し広い道があった。その前に何があったか。家があったはずだった。家の形を思い浮かべようとした。浮かぶことは浮かんだが、輪郭が霧と同じように、定まりを拒んだ。

千草は目を閉じた。

どこかで、湯の沸く音がした。低く、持続的な、腹の底に届く音だった。その音だけが確かで、それ以外のことは、全て霧の中にあった。

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Chapter 1: The Road That Folded Inward — 湯屋の名前、霧の中の自我 | GenNovel