土の匂いで目が覚めた。
黄土色の、乾いた、知らない土の匂いだった。
炭治郎はゆっくりと瞼を開いた。空が広がっていた——どこまでも、どこまでも続く青い天蓋が、まるで誰かが巨大な磁器の碗を伏せたように頭上を覆っていた。風が吹いた。鼻の奥に砂の粒子と、草の青い苦みと、遠くの山から流れてくる松脂の香りが混じり合って届いた。
ここは、どこだ。
上体を起こそうとして、右手に重みがあることに気づいた。握りしめたままだった。刀を。日輪刀を。刃は黒かった——漆黒、と言うより、星のない夜の空に似た、底のない黒さで——そしてほんの僅かに、温かかった。まるで誰かが掌の中に閉じ込めた炭のように。
炭治郎は立ち上がった。膝がしばらくの間、震えた。
眼前に広がるのは平原だった。大陸的な、という言葉以外に形容のできない広大さで、地平線の果てまで黄土色の大地が波打ちながら続いていた。背後には荒削りな岩肌を露出させた山脈が連なり、その稜線に西日が当たって鈍い金色に燃えていた。空気は薄く乾いていて、炭治郎が知っているどの土地の空気とも違った。
——ここは日本ではない。
その事実を、炭治郎は思ったよりも静かに受け取った。驚愕がないわけではなかった。ただ、鬼殺隊の剣士として過ごした年月が、彼に一つの癖を染み込ませていた。まず呼吸を整えること。環境を把握すること。そして、次に何をすべきかを考えること。
深く、鼻から息を吸い込んだ。
——血の匂い。
遠い。山の向こうだ。しかし確かに届いてくる、鉄錆に似た、人間の血の匂い。そしてその奥に、もっと不吉なものが混じっていた。獣の体臭と、腐敗した魔気の、ぬめりとした悪臭。
鬼ではなかった。鬼の気配とは微妙に異なる。けれど、人を害するものが発する気配というのは、世界が変わっても根本は同じらしかった。
炭治郎は刀を構え直し、匂いの方角へ向かって走り始めた。
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山道は急だった。
平原の外縁から始まる坂道は、黄土が剥き出しの岩盤に変わり、やがて松と柏の混じった森の中へと続いていた。炭治郎は走りながら匂いを追った。血の濃度が増していく。風が変わるたびに獣の体臭が波のように押し寄せてきた。そして何かもう一つ——炎の匂いがした。焦げた空気と、雷雨の前の、大気が裂けるような電気の緊張感。
木立が開けた。
炭治郎は目を瞠った。
山道の真ん中で、一人の小柄な人影が大きな狼に似た何かを相手に戦っていた。いや、戦っている、という表現は正確ではないかもしれなかった。一方的に、叩きのめしていた。
棒だった。鉄か、もしくはそれ以上に重い何かで造られた巨大な棒を、その人影は片手で振り回していた。風を裂く音が鋭く、棒が一閃するたびに狼の体が重い砂袋のように吹き飛んだ。地面に激突し、岩に叩きつけられ、それでも狼は立ち上がろうとした。四本の足は数か所が折れているように見えた。唸り声は苦痛と獣的な激怒が混じり合って歪んでいた。
棒を持つ人影は、笑っていた。
それが炭治郎の目に最初に飛び込んできた印象だった。笑い声ではなく、表情として。歯を剥き出した、楽しくて仕方がないという顔。猿に似た、しかし猿を超えた何かの顔。頭には虎皮の帯を巻き、肩には古びた錦の衣を纏っていた。目が、光っていた。金色の、獰猛な光で。
その存在が棒を高く振り上げた瞬間——炭治郎は、動いていた。
考えるより先に足が出た。走るのではなく、滑り込むように。山道の砂利を蹴って低く地面を舐めるように進み、炭治郎は狼とその存在の間に割って入った。
棒が降ってくる。
炭治郎は日輪刀を水平に構え、両手で柄を握り直した。
衝撃が来た。
それは衝撃というより、落雷だった。腕から肩を伝い、背骨を、足の裏まで突き抜けた震動。膝が地面にめり込み、足の踵の下で石が砕けた。歯を喰いしばる。息を整える。全集中——呼吸を、乱すな。
刀が、止まった。
棒が、止まった。
数瞬の沈黙があった。
「……あ?」
棒を持つ存在が、ぽかんとした声を出した。
炭治郎は顔を上げた。目の前に、その存在の顔があった。間近で見ると——やはり人ではなかった。猿の相貌を持っていたが、人のように直立し、人のように言葉を発し、しかし目の奥に燃える光は人のものではなかった。その金色の瞳が、自分の棒を受け止めた黒い刀身と、それを握る少年の顔を、信じられないものを見るように交互に見つめていた。
炭治郎は息を吐いた。
「少し、待ってほしい」
声が出た。日本語で言ったのに、届いた気がした。それが不思議だったが、今は考えている場合ではなかった。
「この子は——この子には、まだ名前があります。俺には、その匂いがわかる」
金色の目が細くなった。
「……なんだ、てめぇは」
その声は岩が崩れるような低さと、炎が燃え上がるような鋭さを同時に持っていた。怒りではなく——純粋な困惑だった。恐らく、この存在が困惑するのはあまりないことなのだろうと、炭治郎はなぜか直感した。
「炭治郎。竈門炭治郎です。あなたは」
「名乗る前に、その刀をどけろ」
「それは、この子を殺さないと約束してもらってからにします」
またしばらくの間があった。
金色の目が、炭治郎を睨んだ。炭治郎はその視線を真正面から受け止めた。腕がまだ震えていたが、視線を逸らすことはしなかった。
後方から、蹄の音がした。
白い馬が、ゆっくりと近づいてくる音だった。
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馬の上に、人がいた。
女性だった。僧服をまとい、頭には金色の帯状の輪を載せていた。顔は穏やかで、しかしその穏やかさの奥に何か深いものを秘めていた——長い年月を経てなお揺らがない、石に刻まれた仏の相貌のような静けさを。
その人の目が、炭治郎の上で止まった。
驚いていた。それは明らかだった。穏やかな顔に、隠しようのない驚きの色が浮かんでいた。
「悟空」
女性が口を開いた。声は低く、静かだった。
金色の目の存在——悟空、と呼ばれたその者が、振り向いた。
「師匠、こいつが急に——」
「見ています」
それだけだった。短い二文字で、悟空の言葉は止まった。
女性の視線が再び炭治郎に向いた。炭治郎は改めてその目を見た。黒かった。深い、静水のような黒さで——そこに映った自分の顔は、どこか場違いなほど若く、狼狽えているように見えた。
炭治郎は刀を引かなかった。まだ、引けなかった。
足元で、狼が低く呻いた。
炭治郎はちらりと視線を落とした。狼の体は傷だらけで、肋骨が変形して見えた。しかしその目は——黒い、痛みに濁った目は——ただ怯えていた。野獣の、あるいはそれ以上のものの怯えではなく、もっと別の何かの——もっと人間的な、追い詰められた魂の怯えだった。
炭治郎は鼻から深く息を吸った。
狼の匂い。獣の体臭。血の匂い。魔気の悪臭。そしてその全ての奥の、奥の——
塩の匂いがした。
涙の匂いに似た、引き裂かれた痛みの塩味が、ほんの微かに届いた。
炭治郎の胸が、ぎゅっと締まった。
「この子には」
炭治郎は言った。悟空に向かって、しかし白馬の女性にも届くように。
「この子には、もとの形があるはずです。今の姿になる前の」
悟空の目が、また細くなった。今度は困惑ではなく、別の感情を帯びていた。炭治郎にはそれが何かまだ正確には読めなかった。
「……お前、何者だ」
今度の声は、岩崩れでも炎でもなかった。どこか剥き出しの、素直な問いだった。
炭治郎は答えた。
「鬼殺隊の、剣士です。——でも今は、ただの旅人です。あなたたちと同じかどうかはわかりませんが、俺も、どこかへ向かっているんだと思います」
西の空が、赤く燃えていた。
その赤さの中で、白馬の女性が静かに目を細めた。何かを考えているような、あるいはすでに何かを決めたような——どちらとも取れる表情で、その人はただ炭治郎を見ていた。
風が吹いた。
松脂と黄土と血の匂いの中に、細く、かすかに——線香の煙の匂いがした。