波が叫んでいた。
甲板の木材が軋み、帆柱が悲鳴を上げた。サウザンドサニー号は巨大な暗闇の掌のなかで翻弄されながら、それでも前へ、前へと進もうとしていた。
モンキー・D・ルフィは船首に立っていた。両手でロープを握り、靴底で濡れた板を踏みしめ、顔じゅうに叩きつける雨粒を気にも留めずに、ただ正面を睨んでいた。嵐の向こうに何かがある、という予感があった。それが何なのかは分からない。だが、その感覚だけは間違っていなかった。
「ルフィ! 中に入れ! こんな嵐で甲板に出てるやつがあるか!」
後方でナミの怒鳴り声が聞こえた。風に半分以上さらわれても、あの声の圧力は残った。ルフィは肩ごし��振り返り、手を振って応えようとしたが、そのとき、海が割れた。
正確には、空が割れた。
雷ではなかった。光の性質が違った。稲妻はするどく直線的だが、あれは違う。まるで巨大な獣が空の布地を爪で引き裂いたような、ぐにゃりとした発光だった。亀裂は一瞬にして広がり、嵐の雲を内側から照らし出し、サニー号の帆を白く染め上げた。
「なんだあれ……」
ルフィは目を細めた。
亀裂の内側には色がなかった。黒でも白でもなく、ただ色そのものが不在であるような、奇妙な深さがあった。そしてそこから何かが吹き出してきた。嵐とは異質な風。潮の匂いも雨の匂いも含まない、空白の息吹だった。
船体が激しく傾いた。ルフィは握っていたロープを放した。
それは選択ではなかった。指が開くより先に体が宙に浮いていた。
「ルフィ!」
ゾロの声だと思った。あるいはウソップだったかもしれない。誰の声であれ、その一秒後にはもう何も聞こえなくなっていた。亀裂が彼を飲み込み、サウザンドサニー号は波濤の彼方に消え、世界は光だけになった。
光の中には音がなかった。重力がなかった。痛みも寒さもなかった。ルフィはただ、白い沈黙の中を落ちていった。仲間たちの顔が一瞬浮かんで、すぐに消えた。
目を開けると、空が青かった。
突き刺すような、情け容赦のない青だった。雲ひとつない。太陽が真上からではなく斜め上から照り付けていて、岩肌に奇妙に鋭い影を作っていた。
ルフィは仰向けに寝転がっていた。背中の感触は泥でも砂でもなく、乾ききった砂利だった。手のひらをつくと、小石の角が皮膚に食い込んだ。口を開くと、空気が乾燥していて、舌が貼りつきそうだった。
「……うまく着地できたな」
自分に言い聞かせるように呟き、上体を起こした。
そこは川床だった。水が流れた跡は残っているが、水そのものは干上がっていた。白い石がごろごろと並び、岸の斜面には丈の低い草と灰色の岩肌が続いている。草むらのどこかで虫が鳴いていた。単調で執拗な、夏の声。
ルフィは立ち上がり、麦わら帽子を確認した。
頭に乗っていた。それで、まず一つ安心した。
次に、ログポースを確認した。
針が回っていた。くるくると、意味をなさない方向に。止まることなく、まるで迷子の羅針盤のように。ログポースは目的地の島の磁場を読んで針を固定する。それが回り続けているということは、読み取れる島が存在しないか、あるいはここがどの海図にも存在しない場所であることを意味した。
「変な島だな」
ルフィは腕を組んで周囲を見回した。
島、という言葉が正しいかどうかも分からなかった。海が見えない。水平線がない。どこまでも続く陸地の起伏があるだけで、塩の匂いも波音も届いてこない。かわりに、乾いた草の匂いと、遠くから風に乗ってくる何か焦げたような、砂のような匂いがした。
視線を遠くに向けると、丘の向こうに壁が見えた。
石造りの、巨大な壁だった。城壁、という形容が浮かんだ。ルフィが知っている島にもそういうものはあったが、あれほど古びて、あれほど堂々としたものは記憶にない。夕方近い太陽の光を受けて、壁の石は金色と橙色の中間の色に輝いていた。
「あそこに人がいそうだな」
それで十分だった。
ルフィは川床をよじ登り、草の斜面に足をつけ、壁に向かって歩き始めた。
腹が減っていた。嵐の前に食べたものがいつだったか思い出せない。胃が主張をはじめていて、それが逆に心強かった。腹が減るというのは生きている証拠だ。
歩きながら、当然のように仲間の名を頭の中で呼んだ。ゾロはどこにいるか。ナミは。サンジは。あの嵐で船ごとどこかに飛ばされたのか、それとも自分だけが引きちぎられたのか。船は無事か。
分からないことを並べ続けても腹は膨れない。
「きっと、ナミが怒ってる」
想像したら少しおかしくなって、ルフィは笑った。声に出して笑った。誰も聞いていない場所で笑うのは少しだけ妙な感じがしたが、やめる理由もなかった。
草が足首を撫でた。遠くで何か、鳥のような声がした。
太陽が傾くにつれて、石壁はどんどん大きくなっていった。近づくにつれて、その規模が分かってきた。高さは十数メートル以上。石と石の継ぎ目には苔がつき、壁の基部には小さな木が根を張っている。長い時間をかけて積み上げられた壁だった。
壁の前に道があった。
踏み固められた土の道で、轍の跡が残っていた。人が通っている道だ。どちらかに進めば城門に辿り着くはずだった。
ルフィは道に出て、少し立ち止まった。
虫の声。乾いた風。遠くの城壁。
サニー号はない。仲間の声もない。ログポースは踊っている。
「新しい島に来るのって、いつもこんな感じだったっけ」
自分に訊いてみたが、答えは出なかった。いや、正確には、どんな島でも最初は知らない場所だったという意味では、いつもこんな感じだった気もした。
ルフィは麦わら帽子のつばを右手でつまんで、少しだけ目深にかぶり直した。
そして、歩き始めた。城門へ向かって。腹を空かせたまま。地図も持たず、仲間も連れず、それでもまったく立ち止まることなく、前へ。
道の脇の草むらで虫が鳴き続けていた。単調で、執拗で、不思議なほど温かみのある声だった。世界はここでも回っているのだと、その虫たちがまるで保証してくれているようだった。
城壁の影が道の上に伸び始めた頃、ルフィの耳に微かに人の声が届いた。
喧騒だった。物を売る声。荷物を積む音。どこかで水が流れている音。
ルフィの足が、自然と速くなった。