呼び出し状は一枚の紙だった。
便箋でも、封筒でも、父の筆跡でもなかった。A4サイズのコピー用紙に印字された、フォント12ポイントのゴシック体。差出人欄には「特務機関ネルフ」とあり、シンジが知らない住所と、シンジが知らない父の肩書が並んでいた。最高司令官。碇ゲンドウ。
十四年間、その男から届いたものといえば、一度の電話と、数枚の短い電報と、誕生日を一週間ずれて届く現金書留だけだった。それが今度は、命令書の形をとっていた。
碇シンジは電車の窓に額をつけて、流れていく景色を見ていた。
車窓の外は、彼が想像していた都市ではなかった。第三新東京市——先生の遠縁の家からここまで、乗り換えを三度繰り返した。その間ずっと、乗客の数が減り続けた。最後の路線には自分しか乗っていなかった。
山が見えた。トンネルを抜けると、山の斜面に巨大な構造物が貼りついていた。金属とコンクリートが複雑に絡み合い、まるで誰かが丘の上に工場を埋め込もうとしたような、あるいは街そのものが地面に沈もうとしているような——シンジにはうまく言語化できなかった。ただ、大きすぎると思った。人間が作ったとは信じにくいほど。
ホームに降り立つと、空気が乾いていた。標高のせいか、それとも別の理由があるのか。携帯端末には迎えが来るとだけ書かれていて、名前は書かれていなかった。
「碇シンジ君?」
声は横から来た。
振り向くと、女性が立っていた。二十代後半か三十近いか、判断するには遠すぎた。黒いジャケットに白いシャツ、長い黒髪を後ろでまとめている。目元に疲労の影があるが、立ち方は軍人めいて真っ直ぐだった。胸には小さなIDカードがぶら下がっている。ネルフのシンボルマーク——葉と碑文を組み合わせたような紋章——が、陽光の中で鈍く光っていた。
「葛城ミサトといいます。ネルフ作戦部に所属しています。案内します」
握手を求めて伸びた手は、シンジが迷う前に引っ込んだ。
「時間がないの。ごめんね」
彼女はすでに歩き始めていた。
車の中でアラームが鳴り始めた。
葛城ミサトの携帯端末が警告音を発した瞬間、彼女の表情が変わった。疲れた女性から、何か別のものへ。シンジにはその変化を説明する言葉がなかった。彼女は一言「来た」と言って、アクセルを踏んだ。
「何が来たんですか」
「使徒」
「使徒って」
「説明は後で。今は酔わないようにしてて」
車は山岳道路を曲がりながら下っていった。外の景色が変わった。民家が消え、フェンスが現れた。検問所を二か所通過した。どちらでも、ミサトのIDカードが窓越しに差し出され、ゲートが自動で開いた。誰もシンジを見なかった。あるいは、見たが何も言わなかった。
遠くで何かが爆発した。
音ではなかった。振動だった。車のシートを通じて、地面の底から突き上げてくるような、内臓に直接届く種類の揺れ。シンジは窓の外を見た。山の向こうに煙が上がっている。黒ではなく、灰色の煙。建物が燃えているときの色ではない。もっと別の——
「見なくていい」
ミサトが言った。目は前を向いていた。
シンジは見続けた。
地下に降りていく間も、アラームは鳴り続けていた。
エレベーターの壁は金属で、継ぎ目がなかった。どこまでも下に続いているような錯覚があった。ミサトはずっと端末を操作しながら、電話で誰かと話していた。声は低く、専門用語が多すぎて、シンジには一割も意味がわからなかった。
扉が開いた。
廊下は広かった。蛍光灯の白い光が一本の線のように続いていて、その光の中で白衣の人間が早足に行き交っていた。誰も話しかけてこなかった。誰もシンジを見なかった。彼はミサトの三歩後ろをついて歩きながら、自分が透明になったような気がした。いつも感じる感覚とは少し違う——透明なのではなく、この場所にとって、彼はまだ関係のない存在だった。
「ここで待って」
ミサトが足を止めた。扉の前だった。
「五分で戻ります。絶対」
彼女はそう言って、廊下の奥に消えた。
五分は十分になった。十分はもっと長くなった。シンジは扉の横の壁に背中をつけて、立ったまま待った。アラームが止んでいた。代わりに、遠くから人の声が聞こえてくる。落ち着いた声で、数字と記号を読み上げている。
床が揺れた。
天井の蛍光灯が、わずかに明滅した。
ミサトが戻ってきたとき、彼女の顔には先ほどとは別の種類の疲れが乗っていた。
「来て」
今度はシンジの横に並んで歩いた。ドアを三つ通り抜け、識別システムが並ぶ廊下を過ぎ、最後に長い通路に出た。通路の突き当たりに、大きなガラスがあった。強化ガラスだとシンジにはわかった。厚みが違う。透過する光の質が、普通の窓と違う。
「見て」
ミサトが言った。
シンジは前に進んだ。ガラスに手をついて、下を見た。
空洞だった。
建物の中に作られた巨大な空洞。深さは推測できなかった。幅は——サッカー場よりも広いかもしれない。照明が数か所から当たっていて、その中央に、それはいた。
人型だった。
人型だが、人ではなかった。
高さは何十メートルあるのかシンジには測れなかった。紫色の装甲が全身を覆い、肩には拘束用の金具が打ち込まれている。頭部は三角形に近く、そこには目に見えるものが埋め込まれていた。シンジには、それが目であることを認識したくなかった。しかし目だった。眠った獣の目。動いていないが、しかし生きている——そういう確信がガラス一枚越しに伝わってきた。
「エヴァンゲリオン初号機」
ミサトが言った。声に感情がなかった。
「汎用ヒト型決戦兵器です。今日から、あなたに乗ってもらうために作られました」
シンジはガラスから離れることができなかった。
手のひらがガラスの表面を押していた。冷たかった。指先から肘にかけて、細かい震えが走っていた。シンジはそれが恐怖なのか寒さなのか、判断する余裕がなかった。
でかすぎる、と思った。
人間が乗るためのものではない、と思った。
でも人型をしているということは、誰かが乗ることを想定して——誰かが、中に入ることを——
「碇」
声は別の方向から来た。
振り向くと、男が立っていた。
長身だった。シンジより頭一つ以上高い。黒いスーツ、白い手袋。両手を組んだまま、顔の下半分を指の甲で覆うような姿勢で立っていた。だから表情が読めなかった。読めたのは目だけだった。暗い眼鏡の奥、さらに暗い目。
シンジはその顔を知っていた。
写真で見たことがあった。電報の隅に印刷された、名刺サイズの顔写真。十年前と比べてどこが変わったのかシンジにはわからなかった。老いたのか、それとも最初からこういう顔なのか。
「父さん」
言葉が出るまでに、一秒かかった。
碇ゲンドウは動かなかった。
「来た」
確認するような言い方だった。感情はなかった。
「乗れ」
それだけだった。
シンジはゲンドウの顔を見た。
ゲンドウはシンジの顔を見ていなかった。ガラスの向こうの初号機を見ていた。あるいは、シンジを通り抜けた先にある何かを。
「なぜ私が」
問いは用意していなかったが、口から出た。
「お前だから」
答えになっていなかった。
シンジは再びガラスに向き直った。初号機がそこにあった。眠っているが、生きている。どこか——どこか、見ていてはいけないものを見ているような気がした。
「他に乗れる人間はいるんですか」
「いる」
「その人に乗ってもらえばいい」
「傷ついている。今は乗れない」
誰かがすでに傷ついている。その傷の分だけ、父はシンジを呼んだ。
シンジは、その計算の構造を、理解した。
「嫌だ」
声に出したとき、自分でも驚いた。
音として出た言葉は、思っていたよりずっと小さかった。廊下の蛍光灯の音に、ほとんど負けていた。震えていた。震えているのに、消えなかった。
「嫌です」
もう一度言った。今度は少し、大きくなった。
ゲンドウは動かなかった。
シンジはゲンドウを見た。何かが変わるかもしれないと思っていたわけではなかった。表情が崩れるかもしれない、声が変わるかもしれない、あるいは怒るかもしれない——怒ってくれたほうがまだよかった。怒りには、少なくとも重力があるから。こちらを認識しているという証拠になるから。
ゲンドウは一秒間、シンジを見た。
それから、顎を引いた。ほんの少し。そして、踵を返した。
歩き始めた。ミサトに向かって、すれ違いざまに何か言った。シンジには聞こえなかった。ゲンドウの靴音が廊下の奥に遠ざかり、角を曲がり、消えた。
議論はなかった。説得もなかった。怒号も、懇願も。
ただ、背中だけがあった。
ミサトは少しの間、何も言わなかった。
シンジも何も言わなかった。
「待機室に案内します」
ミサトが言った。声は平坦だった。何かを堪えているのか、それとも本当に何もないのか、シンジには判断できなかった。
廊下を歩いた。角を二つ曲がり、エレベーターで一階下がり、また廊下を歩いた。どこかで再びアラームが鳴り始めた。今度は低い警告音で、脈打つように断続的に響いた。すれ違う職員の足が速くなった。端末を持って走っている人間がいた。
ミサトが扉を開けた。
六畳ほどの部屋だった。長椅子が一つ、金属製のテーブルが一つ。壁に電光掲示板があったが、何も表示されていなかった。天井に換気口があり、循環する空気の音が絶え間なく聞こえた。古いホテルのように、どこか密閉された匂いがした。人間がいた時間の積み重なった匂い。
「水とか、持ってきましょうか」
「いいです」
「何かあれば——」
「いいです」
ミサトは扉の前で一秒立ち止まり、それから出て行った。
扉が閉まった。
シンジは長椅子に座った。
膝の上に手を置いた。
換気口の音が聞こえた。遠くから、くぐもった振動が伝わってきた。今度は遠かったが、一度だけ、はっきりと天井が揺れた。電光掲示板が明滅した。壁の継ぎ目から、細かい埃が落ちた。
外で、何かが戦っている。
傷ついた誰かが、シンジの代わりに戦っている。
嫌だ、と思った。
しかし、もう一つの「嫌だ」も、同時にあった。
あのコックピットの中に入ること。あの巨大な眠る獣の胴体に飲み込まれること。父親の計算の中の変数になること。
どちらが本当の「嫌だ」なのか——シンジには、まだわからなかった。
壁が再び揺れた。今度は長く、ゆっくりと。どこかで何かが崩れ落ちる音が、遠くから届いてきた。
シンジは膝の上の手を見た。指先が白くなっていた。気づかないうちに、ずっと握りしめていたらしかった。
ゆっくりと、手を開いた。
掌の中央に、ガラスの冷たさがまだ残っていた。