雨が、打ちつけていた。
大阪・北浜のビル群を縫う路地に、三月の冷雨が斜めに流れていた。その雨の中を、劉翔平は小走りで歩いていた。右手にはビニール傘、左の脇にはノートパソコンが入ったトートバッグ。傘の骨が一本折れていて、風が吹くたびに布がはためく音を立てた。
ガラスと鉄でできた高層ビルのエントランスに入ると、受付のロボット端末が彼の顔を一秒も経たずにスキャンした。訪問先のフロアへ自動でゲートが開く。二〇三一年の春、顔認証は名刺より速かった。
二十三階。エレベーターが開くと、そこには白とグレーで統一された広いフロアが広がっていた。壁一面がガラスで、雨煙の向こうに大阪湾の鈍色の水面が見える。接客テーブルには最新のホログラム・ディスプレイが置かれ、どこかから微かにコーヒーの香りが漂ってきた。ただし、その香りはインスタントのものだ、と翔平は感覚的に判断した。
「蜀テック、劉翔平さん」
呼ばれて立ち上がった。スーツの上着を一度引っ張り、トートバッグを持ち直す。パソコンがずっしりと重かった。中古で手に入れた五年落ちのモデルで、角は擦り切れ、右のヒンジにガムテープが巻いてある。会議室のドアをくぐる前に、翔平は一度だけ深呼吸をした。
「失礼します」
テーブルの向かいに三人が座っていた。センターは四十代後半の男——ファンドのパートナー、伊原一成。大手損保の系列VCで、日本のスタートアップ業界を二十年以上見てきた人間だ。両脇にアナリストが一人ずつ。三人とも、穏やかな笑顔をしていた。笑顔の質感は、面接官のそれだった。
「では早速、プレゼンをお願いしましょうか」
翔平はノートパソコンをテーブルに置き、立ったままキーボードを叩いた。ディスプレイが起動する前に一瞬、画面左上のガムテープを親指で押さえた。それから顔を上げ、言った。
「蜀テックは、AIを武器にしません」
伊原の眉が、ほんのわずかに動いた。
「私たちはAIを、人間の声を聞くための耳として使います。今、世の中に出ているAIサービスのほぼすべては、ユーザーのデータを収穫しています。行動パターン、感情スコア、購買予測。プラットフォームが太るほど、人間は薄くなっていく。私たちは逆の方向を向いています」
プレゼンが始まった。十二枚のスライド。タイトルは「技術はみんなのものだ」。
翔平は喋り続けた。福祉的AI設計の可能性について。データ主権をユーザーに返す分散型アーキテクチャについて。教育・医療・介護、利益率の低いセクターにこそ最先端のAIが届くべきだという信念について。声に熱が入るのを自分でも分かっていた。十五分の予定が二十分になった。
伊原は一度もメモを取らなかった。
「ありがとうございました」
質疑応答は八分だった。最初の四分は市場規模の話、次の三分は競合比較、最後の一分は伊原が水を飲んだ時間だった。
「大変興味深いビジョンです。ただ、現時点での収益モデルが、我々の投資基準とはいささか」
翔平はその先を遮らなかった。遮り方を知っていたが、やめた。相手の言葉を最後まで聞くこと。それは彼が自分に課した習慣だった。
「マネタイズの道筋が明確でない、ということですね」
「率直に申し上げると、そうです。理念は素晴らしい。ですが我々は慈善事業ではありませんので」
翔平は一度うなずいた。「わかりました。お時間をいただき、ありがとうございました」
パソコンをバッグに戻す。エレベーターホールに出て、番号を押して、扉が閉まるのを待った。
七回目だった。
どこかから空調の音がした。フロアに残ったコーヒーの残り香。エレベーターの扉が静かに開き、翔平は一人で雨の中へ戻っていった。
雨足は弱まっていなかった。
地下鉄の駅まで五分、という判断でビニール傘を再び開いたが、折れた骨の部分から風が入って肩が濡れた。翔平は気にしなかった。それよりも、頭の中でループしていた言葉の方が問題だった。
七回目。七社連続の「見送り」。
断られた理由はすべて違っていたが、底にある構造は同じだった。「出口が見えない」「競合が大きすぎる」「チームが弱い」「ビジョンが先行しすぎている」。どれも正しかった。そしてどれも、翔平には反論できなかった。
地下鉄の中で、彼はスマートフォンを取り出した。スリ割れた画面をスクロールすると、今日の断りメールがすでに届いていた。所要時間、三十八分。翔平の返信は一行だった。「承知しました。またいつかの機会に」。
梅田乗り換えで御堂筋線に乗り継ぐ。淡路で降りると、商店街の細い入り組んだ路地を抜けて、古いビルの三階へ上がった。蜀テックのオフィスがある場所だ。
ドアを開けると、まず人の気配があった。次に機器の熱。それからコードの匂い——インスタントコーヒーと電子基板が混ざり合った、深夜作業の特有の香りだ。
「どうだった」
デスクの向こうから、関雲が顔を上げずに言った。三十代半ば、体格のいい男で、今夜もフランネルのシャツを着て、大型のデュアルモニターの前に座っている。画面には数百行のコードが流れており、その隣のターミナルには赤いエラーログが瀑布のように出力されていた。
「七回目も同じだった」翔平はバッグを床に置き、上着を椅子にかけた。「伊原さんのところも、収益モデルが見えないって言われた」
「そうか」
それだけ言って、関雲はまた画面に向き直った。翔平は思った。この男は怒っていない。落胆もしていない。ただ、仕事を続けている。それが、なぜか今夜に限って、泣きたいほどありがたかった。
「何が出てる」
「プロトタイプのレスポンスタイムが、負荷テストで三・七秒に戻った。昨日の修正でイレギュラーなキャッシュが積み上がってる」関雲は指でモニターの一点を示した。「ここのメモリ管理が腐ってる。今夜中に直す」
「何人残ってる」
「俺と、後藤と、加藤の二人。あとさっきまで佐々木がいたが、終電で帰した」
翔平は奥のデスクを見た。後藤と加藤、入社して八ヶ月の二人が、それぞれモニターに向かって黙々と作業していた。二人とも二十代の前半で、翔平が求人サイトに書いた「給料は低い、未来は自分で作る」という文句を見て連絡してきた人間たちだった。
「何か買ってくる。コンビニで」
「いらない」
「後藤、加藤は」
「聞いてみれば」
後藤が顔を上げた。「おにぎりお願いします。鮭と、ツナマヨ」
加藤は「俺も」と言ってすぐ画面に戻った。
翔平は財布の残高を一瞬だけ思い出した。法人口座ではなく、自分の口座の残高を。それから、思い出すのをやめた。
出がけに、壁際の丸椅子に張翼飛が座っているのに気づいた。ノートパソコンの画面が顔を下から照らしていて、ヘッドフォンを耳にかけたまま何かを一心に編集している。翔平が声をかけようとしたとき、彼女が先に一本指を立てた。「あと三十秒」と唇が動いた。
三十秒後、張翼飛はヘッドフォンを首に落とし、エンターキーを叩いた。
「アップした」
「何を」
「蜀テックのティザー動画。三十秒。インスタとX、同時配信」
翔平は眉を寄せた。「承認とってないやつか」
「とったら止められてたから」翼飛は悪びれもせず言った。「大丈夫。ちゃんと考えた。見る?」
彼女がノートパソコンを差し出した。翔平はそれを覗き込んだ。
映像は三十秒だった。蜀テックのロゴも製品の説明もない。ただ、様々な人間の手のクローズアップが続く。老人の手、子供の手、傷のある手、小麦色の手、医療用グローブの手。そしてそれらの手が、スマートフォンの画面をタップする瞬間の映像。最後の一秒だけ、白い背景に黒い文字で「技術はみんなのものだ」と出る。BGMはなかった。
翔平は何も言わなかった。
「どう」翼飛は腕を組んで待った。
「……関雲、これ見てみろ」
「忙しい」
「いいから」
関雲が渋々モニターから離れて映像を見た。十秒で終わらせ、無言でデスクに戻った。
「で、戦略は」翔平は翼飛に訊いた。
「戦略はない。ただ放った。引っかかれば引っかかる、引っかからなければそれまで」
「引っかかったらどうする」
「どうにかする」
翔平はため息をついた。それからコートを着直した。「おにぎり買ってくる」
コンビニの帰り道、翔平は傘を閉じた。雨がやんでいた。
空は灰色のままで、街の光を反射して低い雲がぬらりと光っていた。三月の夜気が、首すじに冷たく触れた。コンビニの袋を提げながら、翔平はしばらく立ち止まった。路地の奥に自動販売機の光が見えた。缶コーヒーを買う小銭はあった。買わなかった。
歩きながら、今日のプレゼンを頭の中で再生した。伊原の笑顔。ガラスの向こうの大阪湾。エレベーターが閉まる前に見えた廊下の白さ。
七回。蹴られるたびに、翔平は少しずつ、何かが固まっていくのを感じていた。怒りではない。あきらめでもない。もっと静かな、燃え方を覚えた炭のような何かだった。
オフィスの鍵を開ける前に、彼はスマートフォンを出した。検索バーに名前を入力した。孔明亮。
結果はほぼ出ない。学術論文データベースに三本の論文。著者名、東京大学情報理工学研究科。最後の更新は三年前。その後の記録はなかった。
論文タイトルの一つを読んだ。「分散型AIガバナンスにおける倫理的設計原則——権力の非集中化に向けた新しいフレームワーク」。
翔平はその要旨を三度読んだ。自分が十二枚のスライドで言いたかったことが、そこには一段上の精度で書いてあった。
このとき翔平は、見知らぬ男に対してある種の感情を持った。嫉妬とも崇拝とも言えない、もっと複雑なもの——この人間は自分と同じ方向を向いている、という確信と、だとすれば自分には会いに行く義務がある、という衝動。
彼はSNSのアプリを開き、検索した。一件だけアカウントが見つかった。プロフィール写真はなし。ユーザー名は意味をなさないランダム文字列。最後の投稿は二年前で、一行だった。「囲碁でAIに負けた日より、AIに囲碁を教えた日の方が長く覚えている」
フォロワーは十七人。
翔平はメッセージ欄を開いた。カーソルが点滅している。彼は五分かけて、一行目を書いて、消した。また書いて、また消した。プロフェッショナルな文面から始めようとして、うまくいかなかった。ミッションステートメントを入れようとして、臭いと思った。
結局、何も送らずにポケットにしまった。
オフィスに戻ると、関雲がコードとにらみ合っていた。後藤と加藤にそれぞれおにぎりを渡し、翔平は自分のデスクに座った。
それから一時間、彼も作業をした。週明けに向けての投資家メールのドラフトと、プロトタイプの仕様書の修正。画面の明かりだけが部屋を照らしていた。
「直った」
午前一時を回ったころ、関雲が言った。
「本当に」
「レスポンスタイム〇・八秒。負荷テスト通過」
後藤が「おお」と小さく言った。加藤は無言でガッツポーズをした。
翔平は立って、関雲のモニターを見た。グラフのラインが安定した水平を保っていた。その線の美しさが、翔平には何かの約束のように見えた。
「ありがとな」
「礼はいい。コード書くのが仕事だ」
それだけ言って、関雲はコーヒーカップに手を伸ばした。もうとっくに冷めているはずだったが、黙って飲んだ。
その隣で、張翼飛がまた何かを確認していた。スマートフォンを持ち、通知の画面を眺めている。表情が少しずつ変わっていった。眉が上がり、口角が動いた。
「ちょっと待って」
「何」
「……バズってる」
翔平が振り向いた。「何が」
「さっきの動画。三時間で再生数七万超えてる。コメントが」翼飛はスクロールしながら読み上げた。「『これ何の会社』『涙出た』『日本語で言って』『資本主義への宣戦布告』『シェアした』『シェアした』、またシェア……リポストが三千超えてる」
部屋の温度が一度上がったような感覚があった。
「なんで」後藤が素直に訊いた。
「わかんない」翼飛は正直に言った。「でも引っかかった」
関雲は一度だけ翼飛の方を見て、それから翔平を見た。何も言わなかったが、その目が語っていた。これが彼女の怖さだ、と。
翔平は壁の時計を見た。午前一時二十分。
「俺は帰る。後藤、加藤、もう上がっていい。関雲は」
「もう少しいる」
「わかった」翔平はコートを取り、バッグを肩にかけた。「翼飛、動画のコメント、朝までには全部読んどけ」
「当然」
「いい仕事だった。承認とらなかったのは怒ってる」
「知ってる」
ドアを開けると夜気が入ってきた。翔平は階段を下りながら、スマートフォンを取り出した。さっきのメッセージの下書きを開いた。空白だった。
今度は書いた。消さなかった。
「突然すみません。あなたの論文を読みました。三年前から、ずっと気になっていました。私は大阪でAI会社を経営していて、今日も七回目のVC断りを食らいました。うちの会社は弱小で、資金も人材も乏しい。でも私は、あなたが論文に書いたことが、この業界で本当に実現できると信じています。ただの売り込みではなく、それを一緒に考えてほしいと思っています」
送信ボタンを押した。
路地に出ると、空は相変わらず灰色だったが、雨は完全に上がっていた。どこかで自動販売機が低く唸っている。翔平は両手をコートのポケットに突っ込み、最寄駅に向かって歩き始めた。
スマートフォンに返信は来なかった。夜が明けるまで、来なかった。
それでも、彼は眠れた。七回目の夜に初めて、眠れた。
夜明け前、蜀テックの動画はさらに広がっていた。
午前四時を過ぎたころ、再生数は三十万に届こうとしていた。発端はある看護師のリポストだった。「これ私の手です、と思った」という一行のコメントと共にシェアされたそれは、医療従事者のネットワークを伝播し、そこから介護士、教師、物流現場のアカウントへと波紋を広げた。
技術の恩恵から最も遠いところにいる人間たちが、自分の手を認識したのだ。
関雲はそのすべてを知らなかった。ただ一人、机に向かって次の改善項目のリストを書き込んでいた。プロトタイプは安定した。だが関雲の基準では、「安定」はスタートラインにすぎない。彼には見えていた——このシステムの五層下に眠っている設計上の問題が。今はまだ誰にも気づかれていないが、負荷が三倍になれば必ず噴き出す。
彼はメモ帳に一行書いた。「アーキテクチャの根幹から見直す必要あり。翔平に報告する」
それだけ書いて、また作業に戻った。
朝日が大阪の空に滲んでくる少し前、三十平米のオフィスには関雲一人が残っていた。コードの海の中で、画面の光だけを友として、一つ一つのバグを潰していった。
ビルの外では、まだ誰も知らない会社の名前が、静かに、確実に、インターネットの毛細血管を流れ始めていた。