四月の朝は、いつも嘘をつく。
桜の花びらが校門の石畳に散りばめられ、新学期の空気が人々の呼吸を白く染める。帝都学園の正門をくぐる子どもたちの声は高く、靴音は軽く、世界はまだ何も汚れていないふりをしていた。
江藤コウは列の後ろに立って、その光景を見ていた。
ランドセルの右肩ストラップを指先でつまむ。子どもが緊張したときにやる動作だと、事前に決めていた。校舎の外壁――築三十年以上、外壁に三か所のひび、正門から玄関まで十七歩――視線は前を向いたまま、情報だけを拾っていく。
「江藤くん、こちらへどうぞ」
引率の担任教師、増田陽子。三十代半ば、左手薬指に指輪あり、声の張りから判断して教職歴は長くない。彼女が示した方向へ、コウは少し遠慮がちな歩幅で続いた。
廊下を歩きながら数える。監視カメラは正門に一台、玄関ホールに一台。教員室のドアは廊下に面している。突き当たりを左に折れると、階段が二系統に分かれる。右側の階段が古く、踏み板に軋みがある。西棟とC棟の渡り廊下は、正面からは死角になる。
「緊張しなくていいからね」
増田教諭が振り返って言った。コウは小さく頷き、視線を伏せた。その動作が、彼女の肩の力を抜くのを横目で確認した。人は自分が相手を安心させたと思うとき、警戒を緩める。
六年二組の教室は、三階の南端にあった。
ドアが開かれた瞬間、三十一の視線が一斉にこちらを向いた。コウはそれを正面から受け止めながら、素早く室内を分類した。窓際の四列目――陽当たりが最も良く、かつ廊下との距離がある席。前から三番目の列――担任の死角になりやすい位置。ドアに最も近い席に座っている男子は姿勢が悪く、既にこちらへの興味を失っている。後列の女子グループは隣同士で囁き合っている。そして、一番奥の窓際に一人で座っている少女が、声も立てず、表情も変えず、ただこちらを見ていた。
コウは黒板の前に立った。
「江藤コウです。よろしくお願いします」
声は少しだけ高くした。語尾をわずかに上げた。子どもの声の出し方は、意識しなければすぐに地が出る。
拍手がまばらに起こった。増田教諭が「江藤くんのお席はそちらです」と示したのは、中央付近の空いた机だった。コウはそこへ向かいながら、一番奥の窓際の少女がまだ視線を外していないことに気づいた。
好奇心でも、敵意でもない。
カテゴリを保留した。
午前中の授業が三コマ続いた。コウは必要なときだけノートを取り、それ以外の時間を観察に使った。
担任の増田は授業の進め方にやや迷いがある。新学期初日だからではなく、このクラスの扱いに慣れていない。前任の担任から引き継いだばかりだろう。板書の癖から、理系出身と推測される。
子どもたちの座席配置から社会的な力学を読む。前列中央の男子、岡田と呼ばれている――声が大きく、発言のたびにクラスの空気が動く。非公式のリーダー。ただし教師には媚を売る型で、権力には従順だ。後列の女子グループは閉じた形成をしており、新入りに対して友好的でも敵対的でもなく、無関心だ。もっとも扱いやすい層でもある。
そして、窓際の少女。
休み時間になっても、彼女は本を読んでいた。文庫本ではなく、図書室から借りたらしい分厚い本。タイトルは遠くて読めなかったが、ページをめくる間隔が速い。内容を楽しんでいるのではなく、処理している、という動作だった。
名前は、昼前に判明した。
「白河さん、この問題わかる人?」
増田教諭の問いに、少女は本から顔を上げて正確に答えた。声は静かで、間違いを恐れている様子がない。白河澄香。クラスの誰も特に驚いた顔をしなかった。いつものことらしかった。
昼食の時間、コウは一人で弁当を食べた。それが不自然にならないよう、窓の外を見ながらぼんやりとした表情を作った。孤独な転校生を演じるのは容易い。実際に孤独だからではなく、それが最も周囲の同情と無関心を同時に引き出せる立ち位置だからだ。
「江藤くん」
声をかけられて振り返ると、白河澄香が立っていた。
「C棟に行ったことある?」
唐突な問いだった。コウは一瞬の間を、迷いに見せて答えた。
「まだ。新しいから、どこが何だかよくわからなくて」
白河はそれを聞いて、「そう」とだけ言った。なぜそんなことを聞いたのかを説明しなかった。コウも聞かなかった。彼女は自分の席に戻り、再び本を開いた。
コウは前を向いて、箸を置いた。
C棟。なぜ、あの少女はその名を出したのか。
情報として登録した。
午後、校内の自由見学の時間があった。増田教諭が「校舎を覚えましょう」と言い、転校生という口実は好都合だった。
コウは廊下を歩きながら、歩数と方角で平面図を頭の中に描いた。本棟は南北に長く、渡り廊下でA棟とB棟につながっている。C棟は敷地の北西角にあり、渡り廊下から鉄製のドアで区切られていた。ドアには施錠の跡があるが、現在は解錠状態。C棟の窓は半分が内側からカーテンで塞がれている。外壁の状態から判断して、改修工事は行われていない。しかし、北東側の壁面に新しいコンクリートの痕がある。何かが増設された、あるいは閉鎖された。
階段の踊り場で立ち止まり、スニーカーの靴紐を結ぶふりをした。
踊り場の隅に、小さな長方形のプラスチック片が落ちていた。コウはそれを拾い上げた。薄いカード状のもの、片面が白く、片面は黒い。磁気カードではなく、ICカードの規格に近い。帝都学園の職員証だとすれば、このサイズと素材は標準的だ。ただし、発行番号の書体が他の職員証と異なる可能性がある――それは翌日以降に確認できる。
コウはそれをポケットに入れて、立ち上がった。
「何をしているんですか」
声は低く、穏やかで、しかし問いの形をしていなかった。
コウは振り返った。
廊下の端に男が立っていた。六十代、白髪混じりの髪、紺色のスーツ。校長ではなく、それより上の空気をまとっていた。笑みを浮かべていたが、目は笑っていなかった。
「探検してました。転校したばかりなので、どこに何があるかわからなくて」
コウは声を少し高く保ちながら答えた。
男は一歩近づいてきた。
「それは大切ですね。学校というのは、覚えておくべきことが沢山ある場所ですから」
彼はコウの頭の高さまで視線を落として、柔らかく微笑んだ。コウはその視線が、額のあたりではなく、もう少し奥を見ていることに気づいた。
「君が江藤くんですね。増田先生から聞いていましたよ」
「はい」
「私は青柳といいます。校長をしています」
直接、出迎えに来た。
他の転校生にそれをしているかどうかは、まだ確認できていない。しかし、この学校に着任してからまだ半日も経っていない段階で、校長自ら接触してきた事実は記録に値する。
「困ったことがあれば、いつでも校長室へ来なさい」
青柳は最後にそう言って、廊下を戻っていった。コウはその背中を見送りながら、動かなかった。革靴の音が遠ざかり、角を曲がって消えた。
春の午後の光が、廊下の床に長く伸びている。
どこかで鳥が鳴いた。
夜になった。
コウは六畳の借間に一人で座り、膝の上にノートを開いた。照明は天井の蛍光灯一本。窓の外は住宅地の静けさで、時折、遠くを走る車の音がした。
ノートは表紙が何もない、市販の大学ノートだ。中身は子どもの字で書かれている。久我涼介の筆跡ではない。江藤コウとして訓練した別の書き方で、別の人間の頭の中身を写し取るように、情報を並べていく。
校内平面図(暫定)。教職員確認リスト。生徒の社会的配置。C棟の異常点、三件。
そして最後に、一行書いた。
「青柳白郎。歓迎の笑みと目線が、連動していなかった」
ペンを置く。
窓の外で桜の木が風に揺れ、暗闇の中に白い花びらが浮かんでいた。コウはそれをしばらく見て、ノートを閉じた。
四月の嘘は、まだ始まったばかりだ。