Chapter 1: Snow Over Sakuradamon — A Wooden Sword Lands in the Wrong Century

雪が降っていた。

それだけは確かだった。

銀時が気づいたのは、足元に感触があったからだ。石畳。濡れた、冷たい、本物の石畳。膝をついた格好で、彼は両手を地面に押しつけ、息を整えようとした。肺が燃えるように痛い。さっきまで何をしていたか思い出せない。江戸の、万事屋の、畳の上にいたはずだ。神楽が何かをがなり立てていた。新八が何かに怒っていた。それがいつのことだったか、もう分からない。

顔を上げると、雪だった。

白い。どこまでも白い。空から降るのではなく、空そのものが崩れているように、雪は斜めに叩きつけてくる。睫毛に積もる。鼻の奥が凍る。江戸の冬は知っている。知っているが、これは違う。雪の密度が違う。空気の重さが違う。何より、匂いが違った。馬の糞と汗と、鉄が錆びる前の冷たい臭い。火薬ではない。もっと古い何か。

立ち上がろうとして、右手が木に触れた。

木刀だ。

反射的に握る。手のひらに馴染んだ重さ。これだけは確かだった。

周囲を見回す。

大きな門が見えた。石垣が続いている。江戸城の、外堀のあたりだと思う。しかし何かがおかしい。建物の輪郭が、自分の知っている江戸と微妙にずれている。街灯がない。舗装がない。馬が何頭かいる。いや、馬に引かれた輿がある。立派な輿だ。警護の武士が何人も取り囲んでいる。

そして走ってくる人影があった。十人以上。暗い蓑笠をまとい、雪の中から現れるように、疾走していた。

銀時は最初、喧嘩だと思った。

次の瞬間、刀が抜かれた。

音ではない。鞘走りの音は風に消えた。しかし銀時には見えた。抜刀の軌道が。切っ先の角度が。あれは斬るための構えだ。演習ではない。本物の、人を殺すための構え。

輿の警護が反応した。叫び声が上がった。言葉は聞き取れない。しかし意味は分かった。

始まった。

銀時は走ろうとした。どこへとは決めていない。ただ直感が言った。今ここにいてはいけない。しかしそれより早く、一人の男が彼の前に立ちふさがった。

蓑を着た男だった。歳は三十代半ば。顎に傷がある。その目が銀時を見て、すぐに刀の柄に手をかけた。

「貴様、幕府の間者か」

低い声だった。怒りではなく、確認の声だった。もうすでに答えを決めていて、念のため聞いてみるという種類の声だ。

銀時は木刀を持ったまま立っていた。

「俺、巻き込まれただけなんだけど」

男の顔が変わった。その間、一秒もなかった。刀が抜かれた。銀時は半歩引いて、木刀で受けた。

鋼と木がぶつかる。衝撃が右腕を走る。重い。本物の刀の重さだ。玩具ではない。こちらが木刀である以上、受け続ければいずれ折れる。

銀時は受けた力を横に流し、男の懐へ踏み込んだ。

肘が入った。鳩尾のあたりだ。男がうめいて膝をつく。

振り向くと、もう二人来ていた。

右の男が上段から斬り下ろしてくる。銀時は体を捻って避け、すれ違いざまに首の後ろを木刀の柄で打った。倒れる。左の男が突いてくる。突きは速い。しかし軌道が真っ直ぐすぎる。銀時は半身になって躱し、腕を取って地面に叩きつけた。

雪の中に三人の男が転がっていた。

銀時は肩で息をした。拳が痛い。寒さで感覚が鈍くなっている。しかしこれは慣れた痛みだ。昔からずっと、この痛みとともに生きてきた。

輿の周りで戦闘が続いている。警護の武士たちが次々と切り倒されていく。叫び声が短く途切れる。雪が赤く染まっていく。銀時はその光景を見ながら、奇妙な既視感に囚われていた。

これは知っている。

何かを知っている。

輿の横で、警護の一人が崩れ落ちた。輿の戸が開く。中から、黒い束帯を着た老人の腕が見えた。引きずり出される。刀が振り下ろされる。

銀時は目を逸らした。

見てはいけない気がした。見たら、取り返しのつかないことになる気がした。

「そこの者、止まれ」

別の声だった。さっきの蓑笠の男たちとは違う。整然とした、しかし若い声。

振り向くと、数人の武士がいた。装束が違う。揃っている。水色の羽織――ではなく、この時代ならまだそれもないか。しかし動き方が違った。蓑笠の浪士たちが個々に動くのに対して、こちらは組として動いている。

先頭の男が銀時を見た。

年若い。二十代前半だろうか。色白で、目が細い。口元に薄い笑みがある。しかし目は笑っていなかった。笑みを貼り付けた顔の奥で、その瞳だけが別の生き物のように、銀時を値踏みしていた。

「随分と珍しいものを持っておられる」

男の視線が木刀に落ちた。

「木刀で三人倒したのか。見事なものだ」

「褒めてもらっても」

銀時は言った。

「何も出ない」

男の口元の笑みが、わずかに深くなった。

「どこの者だ」

「通りすがり」

「通りすがりが、なぜここにいる」

「雪道で転んだら着いてた」

沈黙があった。男は銀時を見ていた。品定めをするような目だった。危険なものを前にしたときの、静かな集中。銀時はその目の質を知っていた。剣客の目だ。強い剣客の、好奇心を含んだ目だ。

「幕府の者か」

「違う」

「攘夷の者か」

「違う」

「では何者だ」

「だから通りすがりだと言ってる」

男は少し考えてから、仲間に何か言った。仲間がうなずく。銀時は包囲されているのに気づいた。いつの間にか、四人が三角形を作っている。逃げ道は一方向しかない。

意図的に開けられた、逃げ道。

罠だ、と銀時は思った。

しかし同時に、輿の方で声が上がった。

「沖田、追え」

蓑笠の浪士たちが散り始めていた。仕事が終わったのだ。銀時を包囲していた男たちの目が揺れた。優先順位の計算をしている。

「行け」

色白の男が仲間に言った。

仲間が走り出す。男は銀時を見たまま、動かなかった。

「名は」

「坂田銀時」

「沖田総司だ」

名乗り終えて、男は向きを変えた。あっさりと。まるで最初から追いかける気のなかったように。

「次に会う時は、もっと本物の刀を持っていろ」

走り去る背中に、銀時は何も言わなかった。

言える言葉がなかった。

沖田総司。

その名前を、銀時は知っていた。知りたくなかった形で、知っていた。

雪が降り続けていた。輿の周囲に、黒い染みが広がっていた。武士たちが遺体を処置しようとしている。銀時は動けなかった。足が、石畳に縫いつけられたように動かなかった。

頭の中で、何かが整列していった。

三月三日。

雪。

江戸城の南の門。

黒い束帯の老人。

水戸の浪士たち。

日付が合った。場所が合った。光景が合った。

安政七年、三月三日。

桜田門外。

銀時は木刀を握りしめた。握りしめすぎて、手のひらが痛かった。しかしそれが今、唯一確かなものだった。

彼が歴史の授業で知っている事件は、今しがた、彼の目の前で終わった。

井伊直弼は死んだ。

ということは、ここは江戸だ。本物の、彼の知っている歴史の江戸ではなく、歴史そのものの江戸だ。過去に来てしまったのか、別の世界に来てしまったのか、そんな区別はもうどうでもよかった。確かなのは、彼がこれから起きることを知っているという事実だけだ。

これから十年足らずの間に、何が起きるか。

誰が死ぬか。

誰が生き残り、誰が生き残れないか。

銀時は空を見上げた。雪が顔に降り積もる。睫毛が濡れる。重い。

「最悪だ」

誰にでもなく、言った。

声は雪に吸われて消えた。返事はなかった。当然だ。この世界に、彼の言葉を笑ってくれる奴はいない。馬鹿にしてくれる奴もいない。江戸の長屋も、万事屋の看板も、ここにはない。あるのは赤く染まった雪と、遠ざかる足音と、さっきまで大老と呼ばれていた男の輿だけだ。

木刀を右手に下げて、銀時は立ち尽くした。

どこへ行けばいい。

どこへ行っても、ここは彼の時代ではない。どこへ行っても、彼の知っている顔はいない。どこへ行っても、これから起きることが分かっていて、しかし何もできない。そういう場所だ。

足が動いた。

意志で動かしたわけではなかった。ただ、立ち止まっていることに、体が耐えられなくなった。

雪の中を、銀時は歩き始めた。

方向は決めていない。

ただ、桜田門から遠ざかる方向へ。

振り返らなかった。

振り返れば、輿が見えた。輿の中に何があったか、もう分かっていた。分かっているから、見なかった。見ても何も変わらない。歴史は変わらない。少なくとも、今の彼には変えられない。

雪が降り続けていた。

坂田銀時の天然パーマに、雪が積もった。

誰もそれを笑う者はいなかった。

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Chapter 1: Snow Over Sakuradamon — A Wooden Sword Lands in the Wrong Century — 木刀一本、幕末ニ散ル――銀時漂流録 | GenNovel