雨が降り始めたのは午後六時十四分で、桐島慧がそれを正確に記憶しているのは、ちょうどそのとき図書館の裏口の鍵を閉めていたからだ。空が割れるような音もなく、予告もなく、ただ唐突に水が落ちてきた。傘は、当然のことながら、ロッカーの中にあった。
駐輪場に止めた自転車のかごの中で、傘はきれいに折り畳まれたまま待っていた。慧は軒下に立ち、雨脚を眺めた。本降りだ、と思った。次に、どうせ帰るまでに止まりはしないな、と思った。そして、まあいい、と思って歩き出した。
三十四年間の人生で、これがあまり賢くない判断であることはわかっていた。
商店街のアーケードに逃げ込んだのは一分も経たないうちだったが、それでも肩から首筋にかけてはすっかり濡れていた。十月の雨は冷たく、街灯の光の中で斜めに降る雨粒が妙に鮮明に見えた。アーケードを抜ければ駅まで十分、そこからバスに乗れば家まで二十分。ただし、アーケードを出た瞬間にまた濡れる。
慧は立ち止まり、シャッターの閉まりかけた金物屋の前で時間を潰すことにした。
そのとき、隣の店の灯りに気づいた。
「星野書房」という木製の看板が、濡れた空気の中でぼんやりと光を反射していた。慧は何度もこの通りを歩いていたが、この店をまじめに見たことはなかった。古い本屋だということは知っていた。ショーウィンドウに並んだ本の背表紙が、年季の入った飴色をしていることも。だが今夜は、手書きの紙が扉に貼り付けてあった。
「閉店セール 全品値引き 本日限り」
雨でインクが少し滲んでいた。
慧は、特に本が必要なわけではなかった。図書館で働いているのだから、読みたい本があれば職場に行けばいい。自宅の本棚は整然と並んでいて、あと五冊も入れば崩れる計算だった。それに、閉店セールというのは罪悪感が伴う。棚から本を選んで百円を安くしてもらいながら、その店がなくなっていくことに加担しているような気がする。
そういうことをひとしきり考えながら、慧は扉を開けた。
雨宿りのつもりだった、と、後になって自分に言い聞かせることになる。
店の中は、外よりずっと暖かかった。
天井まで届く本棚が壁に沿ってぎっしり並び、通路は人ひとりがどうにか歩けるくらいの幅しかない。古い紙と埃と、かすかに線香のような匂いが混じりあって、空気そのものが褐色に染まっているみたいだった。天井の蛍光灯は一本が微妙に点滅していて、それが気になって仕方がなかった。
「いらっしゃいませ」
声がした。慧は視線を下げた。
レジカウンターの向こうに、小柄な老女が座っていた。七十代だろうか。白髪を後ろで小さく束ね、厚手のカーディガンの上から毛糸のベストを重ねている。顔には皺が深く刻まれていたが、目は丸く、どこか鳥を思わせる明るさがあった。カウンターの脇には小型のラジオが置かれ、雑音混じりの周波数をぼそぼそと発していた。
「閉店セールでお邪魔しました」慧は言った。「雨宿りも兼ねて」
「あら」と老女は言った。「正直な方ね」
愛想笑いでもなく、皮肉でもなかった。ただそう思ったから言った、という口調だった。
「星野さんですか」慧は看板の苗字を思い出して聞いた。
「星野文江です」老女はうなずいた。「四十年やりました。でも、もういいかなと思って」
「ご商売が」
「在庫の整理が」と星野文江は言い、そのことを深刻だとは特に思っていない顔をした。「本の方は、だいたい片がつきました。あとはもう行き先が決まってないものだけです」
慧は「そうですか」と言い、会話を終わらせる頃合いを測りながら、本棚の間に入っていった。
棚に並んだ本の顔ぶれは、まるで脈絡がなかった。
地方史の研究書の隣に昭和の少女漫画が立ち、その隣に動植物の図鑑、法律の逐条解説、詩集、家庭菜園の手引き。ジャンルという概念が最初からここには存在しなかったようだった。慧は自分の職業的本能で背表紙のタイトルを読みながら歩いた。本の場所を把握するのは得意だ。十進分類法であれば閉じた目でも歩ける。だがここの配置には法則がなく、それがなんとなく心地よかった。
雨の音が屋根を叩いていた。
値引きのシールが貼られた本の中から、数冊を手に取っては戻した。ハードカバーの詩集、状態のいい昭和の百科事典第七巻、料理本。どれも魅力的だったが、本棚に入らない。
棚の一番端、高さの合わない隙間に斜めに挟まっていたものを、慧は抜き出した。
手帳だった。
薄い。文庫本より一回り小さく、厚さは一センチにも満たない。表紙は黒い布張りで、タイトルも出版社名も何も書いていない。金具の留め具もなく、背表紙に文字もない。ページを開くと白紙だった。最初の一ページも、最後の一ページも、どこを開いても同じ、手の触れた跡だけが微かにある白紙だった。
これは何だろう、と慧は思った。
日記帳でも手帳でもなく、かといって白紙のノートを布張りの表紙で製本するのも妙な話だ。値引きシールが表紙に一枚貼ってあり、「¥100」と書いてあった。
「それ、気になりますか」
背後から声がして、慧は振り返った。
星野文江が棚のそばに立っていた。足音をまったく聞いていなかった。
「何が書いてあるのかと思って」慧は言った。「何も書いてないんですね」
「ええ」と文江は言った。「今は」
微妙な言い方だな、と慧は思った。「今は、というのは」
「白紙でも、使えば何かになるでしょう」文江は当然のことを言うように答えた。「百円ですから、よかったら」
断る理由が特になかった。
慧は手帳をレジに持っていき、百円玉を出した。文江は受け取り、小さな紙袋に手帳を入れ、「よかった」と小さく言った。
「何が、ですか」
「行き先が決まった」文江は静かに笑った。
それ以上の説明はなく、慧もそれ以上は聞かなかった。
雨は、少し弱まっていた。
家に帰り着いたのは七時過ぎで、玄関を開けると部屋の中は暗く、慧の帰りを歓迎する生き物はいなかった。正確には一つだけいた。窓辺の棚の上に置かれた多肉植物が、土の中で慎ましく生きていた。葉の端がすこし茶色い。水を遣りすぎても枯れ、遣らなすぎても枯れる、という性質を持っているくせに、三年間なんとか死なずにいる。慧は上着を脱ぎながら植物を眺め、コップに水を入れて少しだけ与えた。
「おかえり」とは言わなかった。言う習慣がなかった。
鞄から紙袋を取り出し、手帳を机の上に置いた。
もう一度開いてみた。やはり白紙だった。
一ページ、二ページ、最後のページ。光の角度を変えて見ても、何もない。匂いを嗅いだ。古い紙の、少し甘いような匂いがした。
別に日記をつける習慣があるわけではなかった。手書きで文章を書くことも、最近はほとんどない。百円を払ったことをほんのり後悔しながら、慧は手帳を机の端に寄せた。夕食を作り、食べ、ニュースを見た。特に何もなかった。シャワーを浴び、本を少し読んだ。
二十三時に布団に入った。
雨はまだ降っていた。
目が覚めたのは午前二時ごろだった。
特に理由はない。眠りの浅い夜というのが、月に何度かある。慧は起き上がり、台所へ行って水を飲んだ。冷蔵庫の左から二番目、いつもの場所に麦茶のボトルがある。コップに注いで一口飲み、蛇口から指先に水を当てた。
部屋に戻るとき、机の上に視線が行った。
特に意識したわけではなかった。ただそちらに窓からの街灯の光が差し込んでいて、机の上が明るかったから、自然に目が向いた。
手帳が、開いていた。
慧は眉を寄せた。閉じて置いたはずだった。風か何かで、と思ったが、窓は閉めてある。
一歩近づいた。
ページの上に、文字があった。
細い、落ち着いた筆跡で、縦書きに、名前と日付が並んでいた。七行。それぞれに、氏名と、斜線と、数字の羅列。
慧の手帳に、慧が書いた覚えのない文字が、七つ、整然と並んでいた。
心臓が一拍、明確に遅れた。
部屋の中は静かだった。雨の音だけがあった。慧は手帳と、手帳の脇に置かれたままのシャーペンを見た。それを誰かが使った形跡はなかった。そもそも、部屋には自分しかいない。鍵は閉めてある。
それでも慧は、手帳に触れる前に部屋を見回した。クローゼット、洗面所、玄関。静かだった。
手帳を手に取った。ページをめくった。
白紙。
白紙。
白紙。
最初のページにだけ、七つの名前があった。
慧は椅子を引いて座った。どこかで誰かが作った悪戯だ、と考えた。あの古書店の主人が仕込んだ何かだ、と考えた。見えないインクが体温で浮き出るような仕掛けがあるのだ、と考えた。
そういう説明を、頭の中で三回ほど繰り返した。
三回目が終わったとき、自分がもうそれを信じていないことに気づいた。
窓の外で、雨が屋根を叩き続けていた。