涿郡の朝は、いつも泥の匂いで始まった。
葦を裂く音が聞こえた。湿った葦束を左の膝で押さえ、右手の刃で一本一本の繊維を引き裂いてゆく、あの単調な音である。夏の終わりの空気は重く、指先の皮膚が何度も切れて黒ずんでいたが、劉備は手を止めなかった。止めれば、考えてしまうからだ。
集落の外れにある小屋の前で、彼は毎朝この作業をした。母親が機を織る音が背後から聞こえた。二十を少し過ぎた男が、老いた母親を養うために葦莚を編む。それが涿郡における劉玄徳という男の全貌であり、少なくとも見かけの上では、それ以上でも以下でもなかった。
しかし劉備の家の入口には、一本の古い桑の木が立っていた。
高さ五丈ほど、枝葉の広がりは南から見ると馬車の天蓋のように円く、日光の加減によっては葉の陰が遠くから見た建物の輪郭に似た。この木を指して、近隣の老人たちはかつてこう囁いた。「あの形は天子の車蓋に似ておる。あの家からいつか貴人が出る」と。
劉備の母は笑わなかった。彼女は息子に向かって、静かに、しかし繰り返し言った。「お前の先祖は景帝の子、中山靖王劉勝の血を引く。忘れるな」と。
景帝。それは前漢、今から三百年以上前の皇帝である。
ここで読者は少しばかり立ち止まって考える必要がある。後漢末期という時代において、「漢室の末裔」という血統がいかなる意味を持ったか、あるいは持たなかったか、ということを。
確かに、劉備の血筋は系譜の上では辿ることができる。涿郡の地方官に提出された家系書にも、それは記されていた。しかしそれは証明できるものではなかった。三百年の間に王族の末裔はいかほど増えたか。劉勝一人が生涯に設けた子は百人を超えたと伝えられる。その末裔をすべて数えれば、帝国のどこかの市場で粟を売っている男も、辺境で羊を追っている男も、いくらでも「漢室の末裔」でありえた。
つまり劉備の血筋は、証明されているわけでも、否定されているわけでもなかった。それはちょうど、検証不可能な呪文のようなものとして彼の人生に貼りついていた。
葦莚を編む手が、ふと止まった。
道の向こうから人の声が近づいてきた。数人の若者が連れ立って通りすぎようとしていた。その中の一人が劉備に目をとめ、顎をしゃくった。「おい、莚売り。お前の先祖が漢の皇帝だって話、本当か」
笑いが起きた。
劉備は顔を上げなかった。葦を裂く手だけが、わずかに速くなった。
これが彼の少年期であり、青年期の一部であった。血筋という唯一の財産を所持しながら、その財産の価値を日々嘲笑される生活。屈辱は慢性化し、やがて彼の内側に奇妙な硬度を生んだ。それは怒りではなかった。怒りはもっと短命なものである。劉備の中に堆積したものは、もっと遅く燃える燃料のようなものだった。
同じころ、都・洛陽では、曹操という名の少年が別種の問題を抱えていた。
彼の父、曹嵩は宦官・曹騰の養子であった。曹騰は桓帝・霊帝の二代にわたって仕えた宦官で、その権勢は相当なものであったが、宦官の養子という身分が後漢社会においていかなる烙印を押すかは、いうまでもなかった。
後漢の支配層は、「士大夫」と呼ばれる儒学教育を受けた士族階層によって構成されていた。彼らにとって宦官とは、皇帝の側近として不当に権力を専横する「内廷の穢れ」であり、帝国の腐敗の象徴そのものであった。その宦官に連なる家系を持つ曹操は、どれほど才能があろうとも、その出自だけで士族の閨閥から一定の距離を置かれた。
しかし曹操という少年は、この状況を憎んでいたとしても、そのことを顔に出さなかった。
彼は洛陽の街を歩くとき、いつも少し速く歩いた。これは後年の武将としての習慣になる前から身についていた動きで、要するに、目的地のない場所にいる時間を短くするための反射だった。立ち止まると観察される。観察されると品定めされる。品定めされると、その人間の内側が相手に届く前に外側の烙印だけが先に届く。
曹操は観察されることを好まなかった。彼は観察する側にいたかった。
若い曹操を観察した人物が一人いた。橋玄という、当時名声の高い官僚である。
曹操が二十歳前後のある日、橋玄は彼を正面から見据えてこう言った。「天下がこれから乱れる。乱世を救える器の人物でなければ生き延びられぬ時代が来る。おそらくお前がその人物だろう。私の子弟を頼む」
賛辞か、呪いか。
曹操はこの評言を生涯覚えていた。橋玄の言葉の意味は、彼がのちに別の人物からより明確な形で受け取ることになる。相面術の達人として知られた許劭が、当時流行していた「月旦評」――人物月評を公開する一種の批評活動――において、曹操についてこう言ったのである。
「治世の能臣、乱世の奸雄」
能臣と奸雄。秩序の時代の有能な大臣と、混乱の時代の悪しき英雄。この二つの評価は、通常であれば矛盾する。しかし許劭の慧眼は、曹操という人物の中にこの矛盾が同居していることを見抜いていた。どちらの時代が来るかによって、同じ男が二つの異なる評価を受ける、と。
曹操はこれを聞いて大笑いした、と記録は伝える。
なぜ笑ったのか。侮辱されたわけではなかったが、賛辞でもなかった。あるいは、曹操が笑ったのは、その評言の正確さを即座に理解し、しかもそれを受け入れたからではなかったか。彼はこのとき、自分が何者であるかをすでに知っていた。知っていた上で、まだ名前のついていない未来に向かって笑ったのである。
後漢という帝国が腐っていた。
この事実は、帝国の末端にいる農民から、洛陽の士大夫まで、誰もが知っていた。知っていながら誰も止められなかった、というのが正確なところだろう。
問題の構造は単純ではなかった。外朝の士大夫と内廷の宦官が権力を奪い合い、その隙に外戚が割り込み、地方では豪族が土地を集積して農民を小作人化し、税収は増えず、水害と旱魃が交互に人を殺した。帝国の財政は慢性的な欠乏状態に置かれ、官職はあからさまに売買され、地方官は赴任した土地から搾取することを最初から前提にして任地へ向かった。
この状態が何十年も続いた。
そして、一人の男が現れた。
張角。鉅鹿の人。太平道の創始者にして、後に「黄巾賊」と呼ばれることになる大反乱の首領である。
張角は医者、あるいは呪術師だったともいわれる。彼は「太平清領書」という書物を奉じ、病者に呪水を飲ませて治癒を行い、その評判が貧しい農民たちの間に広まった。彼の教えは単純だった。「蒼天已死、黄天当立」――青天はすでに死んだ、黄天が立つべき時が来た、と。
蒼天とは漢王朝を指す。黄天とは張角の太平道が奉じる天を指す。
しかしここで注意が必要である。張角の反乱を「反乱」と呼ぶとき、われわれは事態を単純化しすぎている。
張角が組織を広げた十年間、彼の元には数十万、一説には百万に近い人間が集まった。その多くは農民だった。飢えた農民、土地を失った農民、地方官に搾取された農民である。彼らが張角の旗に集ったのは、信仰心からだけではなかった。太平道の組織は、帝国の行政が機能しなくなった地域において、医療と互助の機能を実質的に担っていた。病者を癒し、食糧を融通し、共同体の秩序を維持した。
つまり張角の組織は、帝国が放棄した機能を代替していた。
これを「反乱」と呼ぶか、「修復の試み」と呼ぶかは、立場によって異なる。後漢の朝廷にとってそれは反乱であり、数百万の農民にとってそれは救済であった。帝国の免疫系が自らの組織を攻撃し始めたとき、その病変を外部から観察できる立場にいた者は、当時ほとんどいなかった。
中平元年(一八四年)春、張角はついに봉기した。
「黄天の世がここに始まる」
兵士たちは頭に黄色の布を巻いた。これが「黄巾」の名の由来である。反乱は青州・徐州・幽州・冀州・荊州・揚州・兗州・豫州の八州で同時に発生した。後漢帝国は、その広大な版図の各所で、一斉に炎を上げた。
洛陽の朝廷は震撼した。
混乱の中で、朝廷は地方の豪族に軍の組織と鎮圧を委ねるという措置を取った。中央から派遣できる軍隊が、もはや十分ではなかったからだ。この判断は黄巾の乱を鎮圧するという短期的目的においては一定の効果をあげた。しかし同時に、それは地方に武力と軍事指揮権を分散させるという、取り返しのつかない決定でもあった。
帝国は黄巾を鎮めるために、地方軍閥という次の問題の種を蒔いた。
涿郡でも、募兵の触れが届いた。
劉備がその触れを読んだのは、集落の入口に貼り出されたそれを、朝の葦運びの帰りに目にしたときだった。黄巾賊討伐のために義勇兵を募る、と書いてあった。
彼は足を止めた。
その時間は短かった。通りを挟んだ向かいの軒下で、一人の大男が彼と同じ触れを読んでいた。日焼けした肌、農夫のような服、しかし手の大きさと肩の厚みは農夫のそれではなかった。関羽。のちに「武神」と呼ばれ、中国の歴史において最も長く崇拝され続けることになる男が、そのとき劉備と同じ触れを読んでいた。
しかし二人はまだ知り合いではなかった。
劉備が先に視線を外し、歩き出した。葦束が肩に重かった。空は白く曇っていた。
帝国が傾いていた。それは誰の目にも見えた。見えながら、誰もその速度を正確には計れなかった。洛陽の宮殿でも、涿郡の葦莚の小屋の前でも。
一つの時代が終わろうとしていた。しかしそれに気づいた人間のうち、次の時代が何であるかを知っていた者は、おそらく一人もいなかった。知っていると思っていた人間は何人もいたが、それはまた別の話である。
曹操は洛陽で、許劭の言葉をまだ笑い続けていたかもしれない。
劉備は涿郡で、葦束を下ろし、また莚を編み始めた。
桑の木は、その日も五丈の高さで、馬車の天蓋に似た形の陰を地面に落としていた。