雨は午後三時に降り始め、誠司はそのことに気づくのが三十分遅れた。
コンビニのレジ袋を頭の上に乗せて走るのが嫌いだということだけは確かで、傘を持っていないというのは毎回のことで、濡れそぼった状態で路地を曲がったとき、古い木の看板に灯った電球の光が水たまりに映っているのが見えた。誠司は立ち止まった。立ち止まることができたのは、特に行く当てがなかったからだ。
「三上書林」と看板には書かれていた。シュロの繊維でできたような、くたびれた暖簾が半分だけ風に揺れていた。
誠司は入った。
店の中には紙の匂いがした。正確に言えば、古い紙と、それよりも少し古い木材と、どこかで沸かしっぱなしになっている湯の匂いが混ざったものだった。棚は床から天井まで本で埋まっており、通路は一人が横を向けば通れるという程度の幅しかなかった。電球は暖色で、在庫の多さのわりに妙に落ち着いた場所だった。
「いらっしゃい」
奥から声がした。声の主はすぐには姿を現さなかった。
誠司はコートの水を手で払いながら、とりあえず一番近い棚を眺めた。法律関係の本が多かった。民事訴訟法のコンメンタール、昭和四十年代の刑事政策の論文集、地方自治の研究書。誠司の専門は社会学の犯罪学分野で、こういった本は読まないわけではないが、積極的に手を伸ばす性質のものでもなかった。
「何かお探しですか」
店の奥から老人が現れた。七十代とおぼしき、背の低い男だった。白髪は丁寧に横に撫でつけられており、眼鏡のレンズは厚く、上着はグレーのカーディガンで、全体的に図書館の司書をそのまま民間に横流ししたような風貌をしていた。
「雨宿りです」と誠司は正直に言った。
「それは賢明ですね」
老人はそう答えて、また奥に引っ込んだ。
誠司は棚をぶらぶらと見て回った。ガスコンロの上でやかんがじわじわと音を立てていた。雨が屋根を叩く音が、本の匂いと一緒に店内に漂っていた。こういう場所には、本来あと十五年くらい経ってから来るべきなのかもしれないと思った。今の自分にはまだ似合わない。二十六歳の院生が古書店で雨宿りというのは、少しばかり早熟な絵面だ。
棚の端まで来たとき、足が止まった。
それは百科事典の棚の、一番下の段だった。水染みで膨らんだ大型本が二冊、斜めに立てかけてあり、その隙間に細いものが挟まっていた。引き抜いてみると、手のひらに収まるくらいの小さなノートだった。表紙は布張りで、色は褪せた藍色——というより、かつて藍色だったものが時間によって灰色に近づいた色、とでも言えばいいだろうか。糸で綴じた背は少し緩んでおり、触れるとほんのわずか、湿った空気の感触があった。
表紙には筆で書いたような文字が入っていた。
「裁定録」
誠司は読んだ。声には出さなかった。
聞いたことのない言葉だった。法律用語でも、一般的な慣用語でもない。裁定、という語は知っている。録、という語も知っている。しかし「裁定録」という組み合わせは、少なくとも誠司の知識の中には存在しなかった。
「それは」
老人が横から現れた。誠司は少し驚いて顔を上げた。
「五十円でいいですよ」
老人は値段だけを言った。本の来歴も、内容も、なぜそこに挟まっていたのかも、説明しなかった。眼鏡越しの目は、ノートではなく棚の少し上の空間に向いていた。
「買ってもいいんですか。まだ中も見ていないですが」
「五十円の本に値段以上の審査は必要ないと思いますよ」
それはそうかもしれなかった。誠司は財布から小銭を出した。老人はそれを受け取り、特に礼も言わず、また奥に戻っていった。
雨はまだ降っていた。
アパートに帰ったのは五時を過ぎた頃で、誠司は濡れたコートをハンガーにかけ、流しで手を洗い、電気ケトルのスイッチを入れてから、机の上に三上書林で買ったノートを置いた。
机の上には論文の草稿が広がっていた。「逸脱行動における制度的排除の構造」というタイトルが書かれた表紙だけがあって、中身は三十ページまで書いてそこで止まっている。止まってから二週間が経過していた。指導教員の有田先生には「煮詰まっているんですか」と聞かれ、「概念の再整理をしています」と答えたが、実際のところは書けない理由がよくわかっていないだけだった。
ケトルが沸いた音がした。
誠司はインスタントコーヒーをマグカップに入れてお湯を注ぎ、ノートを手に取った。表紙を開く。
最初のページには、手書きの文字が一行だけあった。
インクは黒く、字体はどこかの時代の人間の字で、形が整っているというよりも整えようとした形跡のある字だった。誠司はその一行を読んだ。一度読んで、もう一度読んだ。
「名前と顔を思い浮かべながら書けば、その者は三日以内に自らの罪を告白し、相応の報いを受ける」
誠司はコーヒーを一口飲んだ。
ぬるかった。ケトルが沸いた直後に入れたはずなのに、注いでいる間に冷めたのかもしれない。あるいは沸騰し切っていなかったか。どちらでもいい。
彼は椅子の背もたれに体を預けて、天井を見た。
社会学の院生として、誠司はこの手のものに対する見方をそれなりに持っていた。呪術的思考の構造については三年目のゼミで発表したことがある。人が「効果がある」と信じるとき、その信念は結果を先取りして解釈する認知バイアスによって強化される。一度信じた人間は、失敗した事例を無意識に軽視し、成功した事例だけを記憶に残す。古今東西、呪符や厄除けや験担ぎが廃れないのは、それが効くからではなく、「効くかもしれない」という構造が人間の認識装置と相性がいいからだ。
そういうことを知っている人間が、五十円のノートの一行を読んで何かを信じるとしたら、それはよほどのことだろう。
誠司は信じなかった。
信じなかったが、次のページを開いた。白紙だった。その次も白紙だった。最後まで確認した。白紙しかなかった。表紙の裏も、裏表紙の内側も、何も書かれていなかった。最初のページの一行以外に、このノートには文字が存在しなかった。
誠司はノートを閉じ、机の上に置いた。
論文の草稿の横に並べてみると、二つはひどく不釣り合いだった。片方は三年間の学術的営為の結晶であり、もう片方は路地の古書店で五十円で買った出所不明のノートだ。どちらが自分の人生に近いかを問われたら、今夜に限っては答えに迷うかもしれなかった。
窓の外で雨が続いていた。
誠司はコーヒーを飲み終えて、それからしばらく何もしなかった。正確には、何もしていないように見えながら、頭の中でひとつの名前が浮かんでは消えるということを繰り返していた。
服部、という名前だった。
正式には、服部賢一郎。誠司の母が十一年前に金を騙し取られた相手で、健康食品の会員制販売を名目に組織された、法的にグレーゾーンの投資話を持ちかけてきた男だった。母は三百万円を出した。服部は集めた金を元手に別のスキームに乗り換え、最終的に民事訴訟で訴えられたが、弁護士を使って財産を隠し、和解金の支払いを巧みに引き延ばした末に、時効という名の安全地帯に滑り込んだ。
誠司が大学院に進んで犯罪学を専攻した理由を人に聞かれたときは、「社会的逸脱の構造に興味があったから」と答えることにしている。それは嘘ではない。ただ、全部でもない。
服部賢一郎。
頭の中で名前を繰り返したとき、それに続いて顔が浮かんだ。母から見せてもらった写真で見た顔だ。丸顔で、笑うと目が細くなって、スーツを着て、愛想よく笑っていた。
誠司はノートに目をやった。
それから、視線を外した。
立ち上がって、台所に行き、マグカップを洗った。食器棚の扉が歪んでいて少し閉まりにくいので、最後に一度押し込んでから居間に戻った。エアコンのリモコンを探した。クッションの下にあった。暖房を入れた。
机の上のノートは、さっきと同じ場所にあった。
誠司は椅子に座って、論文の草稿を手に取った。三十一ページ目を書こうと思った。書けなかった。
ノートを手に取り、もう一度最初のページを開いた。
「名前と顔を思い浮かべながら書けば、その者は三日以内に自らの罪を告白し、相応の報いを受ける」
ぬるくなったコーヒーの、少し焦げた匂いが残っていた。
誠司は何も書かなかった。
ただ、ノートを閉じなかった。