Chapter 1: The Night Katsuragi Toru Ceased to Exist

倉庫の中は、魚の腐臭と機械油のにおいがした。

桟橋に面した旧貯蔵施設。荷役クレーンはとうに錆びて動かない。コンクリートの床に染みついた塩気と、何年分かの闇が重なって、その場所には昼間でも光が届かなかった。夜の十一時過ぎとなれば、なおさらだった。

葛城透は鉄骨の梁の上に腹這いになって、三メートル下の光景を見ていた。

スーツの膝が汚れることは気にしなかった。目が暗所に慣れるまでの三分間を、彼はすでに計算に組み込んでいた。

倉庫の中央に、ヘッドライトを点灯させたまま停車した黒いワンボックス車が一台。その前に、懐中電灯を手にした男が四人。向かい合う側に、スーツ姿の男が二人と、コートを着た女が一人。

女は背を向けているため、顔が見えない。

しかし透は、その場の力学を即座に読んだ。スーツの二人が立つ位置、懐中電灯の角度、女を中心とした三角形の頂点。決定権はコートの女にある。残りの六人は、いずれも実行する側だ。

ワンボックス車の荷台から、木箱がひとつ降ろされた。

透は携帯のカメラを構えた。シャッター音を殺した状態で、三枚。ナンバープレート、木箱の刻印、男たちの顔。

十七歳にしては長い指が、器用に操作する。

問題は、撮影した後だった。

梁から降りるルートは二つある。来た道を戻って北側の非常口へ抜けるか、南端の換気口から屋根に出るか。北側のほうが近い。しかし透が這い上がってきた経路を考えれば、足音が反響しやすい金属階段を使わざるを得ない。

計算に、一秒かけた。南側へ行く。

動き始めたのと、下の男の一人が顔を上げたのは、ほぼ同時だった。

懐中電灯の光が、梁を横切った。

透は息を止めた。梁の影に身を沈める。光が通り過ぎるまでの、四秒間。

通り過ぎた。

慎重に、しかし素早く、匍匐前進で南端へ向かう。あと六メートル。換気口まで五メートル。

「上にいる」

声が、倉庫の壁に反響した。

走った。梁の上を。鉄の感触が手のひらと膝に食い込む。換気口まで三メートル。二メートル。

脚に、何かが当たった。

痛みよりも先に、床が来た。

梁からではなく、換気口の縁に足を引っかけて体勢を崩し、屋根の傾斜を転がって、外壁の排水管に腕を絡めた状態で宙吊りになった。高さは四メートルほど。

手が滑った。

着地の衝撃で右膝をついたが、骨は折れていない。立ち上がれる。立ち上がった。

走る前に、周囲を確認した。その一秒が、致命的だった。

正面から男が来ていた。

腕を掴まれた段階で、透は抵抗の優先順位を計算していた。携帯を手放す。もみ合って路地に出る。声を上げて人を呼ぶ。三つのうちどれかを、次の二秒で選択する必要があった。

しかし選択する前に、首の後ろに何かが押し当てられた。

注射器、と認識した。

その後のことは、正確に思い出せない。

地面が傾いた、と感じた記憶がある。男の靴が視界に入った記憶もある。コンクリートの冷たさが頬に触れた、そこまでは確かだ。

それ以降は、三日間、空白だった。

目が覚めたのは、路地だった。

最初に気づいたのは、においだった。排水溝の錆と、濡れた段ボールと、遠くの食堂から漂ってくる揚げ油。次に、頭上の空。曇っている。何時かわからない。

体を起こそうとして、うまくいかなかった。

腕の力が、思った通りに出ない。バランスが、おかしい。

透は自分の手を見た。

その手は、自分のものではなかった。

いや、自分のものだ。理屈の上では。しかし十七歳の手ではない。関節の大きさが違う。指の長さが違う。手の甲の皮膚が、子供のそれだった。

十秒間、透は動かなかった。

それから立ち上がった。立ち上がれた。しかし視点の高さが、違った。見え方が、違った。道路の向かいに駐車した車のボンネットが、以前とは異なる角度で視界に入ってくる。

排水溝の水面に顔を映した。

十歳か、十一歳か。そのくらいの子供の顔が、そこにあった。

目だけが、同じだった。

透は、一分間、その顔を見ていた。感情の手順を、普段通りに処理した。驚き、否定、確認、受容。感情は情報の一種だ。処理を遅らせる理由はない。

問題は、現状だ。

身体が縮んだ。理由はわからない。倉庫で投与された薬物の作用だろう。可逆か不可逆かも、今の段階では判断できない。

持ち物を確認した。右ポケットに、半分に折られた小銭入れ。百円玉が三枚。左ポケットは空だ。携帯は、当然ない。上着は、ない。制服のワイシャツと、学校指定のスラックスが、この身体には不自然に大きかった。

そして胸ポケットに、学生証が一枚。

葛城透。十七歳。所属する高校の名前と、顔写真。

透は学生証を取り出して、長い時間、それを見た。

写真の顔と、今の自分の顔は、一致しない。

名前と、今の自分の外見は、一致しない。

この学生証を持って交番に行けば、何が起きるか。

考えるまでもなかった。信じてもらえない。病院に連れて行かれるか、保護者を呼ばれるか、精神科への照会を薦められるか。いずれにしても、葛城透という人物の周辺を、関係各所が調べ始める。家族に連絡が行く。学校に連絡が行く。

そして、倉庫に来た理由を問われる。

漆黒、という名の組織を追っていた。その過程で、今夜の取引を掴んだ。単独で動いていた。十七歳の学生探偵が、組織の密取引を監視していた、などという説明が通用する文脈は、どこにも存在しない。

倉庫で撮影した写真は、すでにない。

透は路地の端まで歩いて、排水溝の格子の上にしゃがんだ。

学生証を、もう一度だけ見た。写真の中の自分は、十七歳の顔をしている。少し無愛想で、カメラを直視している。高校の入学式の前日に撮った証明写真だ。

ライターは持っていなかった。百円ショップのものでいい。そこまで歩く足は、ある。

透は立ち上がり、路地を出た。

コンビニの前を通った時、ガラスに自分の姿が映った。オーバーサイズのシャツを着た、小柄な子供。靴は、かろうじてサイズが合っている。それだけが、不幸中の幸いだった。

百円ライターを、コンビニで買った。レジの店員は透の顔を見て、一瞬だけ眉を動かした。何も言わなかった。

路地に戻った。

排水溝の格子の前にしゃがんで、学生証の角にライターの火を近づけた。プラスチックのラミネートは、最初は溶けて丸まり、それから燃え始めた。顔写真が、名前が、生年月日が、所属が、順番に焦げて黒くなって、ちいさな灰になった。

雨が降り始めた。

灰は、格子の隙間に落ちた。

透は立ち上がった。

葛城透は、今日、消えた。

これは事実だ。感傷ではない。今後のすべての行動を組み立てるための、基礎的な事実として、透はそれを頭の中に収めた。

名前を変える必要がある。住む場所が必要だ。この身体を説明できる文脈が必要だ。

そして、倉庫で何が起きたかを調べる方法が、必要だ。

雨は細く、冷たかった。透は歩き出した。行き先は、まだ決まっていない。しかし脚は動く。頭は動く。目は、ちゃんと見えている。

それだけあれば、今夜は十分だった。

明日のことは、明日に考える。

今夜必要なのは、雨宿りできる場所と、この身体に合うサイズの服だ。

透は、それを静かに、順番に、考えながら歩いた。

倉庫の一件から三日後、ということは後になって計算した。

路地で目覚めた日から数えれば、正確には時刻すら定かではない。しかし透が倉庫に向かったのが十一月の第三金曜日の夜で、雨の中を歩いたのが月曜日の明け方だったことは、後日確認した情報から逆算できた。

三日間、透の身体は、どこかにあった。

それがどこであるかは、わからない。

わからないことのリストは、この時点ですでに相当な長さになっていた。

薬物の正体。投与の目的。組織が透を生かした理由。この身体変化が永続するものかどうか。倉庫で交わされた取引の内容と、その先の流通経路。コートの女の顔。

透はそのリストを、頭の中で作り直した。優先順位をつけた。

一番上に置いたのは、身分の確立だった。

葛城透は、消えた。では、代わりに誰になるか。

名前は、考えていた。小村光。どこにでもある名字と、よくある名前。なるべく記憶に引っかかりのない組み合わせ。十歳の子供として、必要最低限の説明を持つ人物。

身を寄せる場所も、見当はついていた。

桐島誠一郎。練馬区でちいさな探偵事務所を営む、冴えない中年男。透の幼馴染だった桐島奈緒の父親だ。元は県警の刑事だったが、何かの理由で辞めた。今は浮気調査と迷い猫の案件で生計を立てている、と人づてに聞いていた。

透が桐島誠一郎を選んだ理由は、二つある。

一つは、探偵という職業が、この身体と偽名を持つ透にとって、最も都合のよい庇護環境だということ。

もう一つは、桐島誠一郎が、何かを隠している顔をした男だということ。

一年前、奈緒の誕生日パーティで一度だけ顔を合わせた。その時に、透はそう判断した。自分の過去についての質問を、笑いながら躱す人間の目の動き方を、透は知っている。桐島誠一郎はその種の男だった。

隠し事のある人間は、他人の隠し事に、深く踏み込まない。

透はコンビニのゴミ箱の陰で、雨が小降りになるのを待ちながら、その計算を確認した。

外は白みかけていた。

どこかの食堂が、シャッターを上げる音がした。

透は立った。歩き出した。

葛城透という名前は、もうない。

しかし思考は残った。観察する目が残った。解こうとする意志が残った。

それで十分だ、と透は決めた。

十分だと決めることが、今自分にできる唯一の選択だった。

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Chapter 1: The Night Katsuragi Toru Ceased to Exist — 硝子の名前 | GenNovel