返却口の底で、それは待っていた。
十月の夕方、武蔵野大学図書館の返却カウンターには、誰が置いていったのかわからない本が三十二冊積み上がっていた。鷺沼コウは一冊ずつ背表紙を確認しながら分類ラベルを貼り直す作業を続けていた。蛍光灯の光が白く、外はもう暗い。暖房の乾いた風がひっきりなしに吹いて、ページをめくるたびに静電気が走った。
コウは二十八歳で、武蔵野大学の図書館に勤めて四年になる。背は平均より少し高く、眼鏡は度が合っていて、靴は毎朝磨いている。そういう人間だった。毎朝同じ時刻に出勤して、同じ順番で作業をこなし、同じ窓際の席で昼食を食べる。それをルーティンとは呼ばずに「合理性」と呼んでいた。大学図書館の司書という職業について、面白いかと聞かれれば、面白い、と答えた。嘘ではなかった。ただその「面白い」には、いつも少し間があった。
その夜、カウンター下の返却ボックスを整理していたとき、コウは最初、それを学生が置き忘れた私物だと思った。サイズはB5判より少し小さく、表紙は褪せた灰色で、背の糸綴じが少しほつれている。図書館のラベルはない。バーコードもない。
拾い上げると、思ったより重かった。
表紙の中央に、薄墨色の文字で四文字が記してあった。
命名帳。
コウは眼鏡を指で押し上げた。悪戯にしては手が込んでいる。芸術学部の学生が製本実習の余りで作ったのかもしれない。あるいは、どこかの古本市で紛れ込んだか。いずれにせよ、持ち主不明の私物の扱いは一つしかない。彼はカウンター奥の引き出しから「遺失物」と書いた付箋を取り出し、ノートの表紙に貼り付けた。それを受付後ろの段ボール箱——学生が忘れていった傘や手袋やイヤホンが雑然と詰まっている——に放り込んだ。
それで終わりにするはずだった。
閉館作業は二十時に始まる。コウは館内を一巡して残留者を外に出し、照明を落とし、防犯カメラの確認をして、バックヤードの記録簿に署名した。作業のひとつひとつに迷いはなかった。年季が入っているというより、身に染みている、という感じだ。
退館する直前、コウはもう一度だけ段ボール箱を見た。
命名帳。
変な名前だ、と思った。命名帳というのは、普通、誰かに名をつけるためのものだ。辞典的には「名を記す帳面」というほどの意味だが、そこには微妙に能動的なニュアンスがある。記録するのではなく、命ずる。
コウは電灯を消して外に出た。
自転車で帰る道すがら、十月の空気が頬に当たった。木々はまだ完全には色づいていなくて、中途半端に黄色くなった葉が街灯に照らされていた。交差点で信号待ちをしながら、コウはスマートフォンを取り出して、何となくニュースアプリを開いた。
トップに出てきた記事のタイトルで、指が止まった。
「高齢入居者を不法退去——武蔵野市内の不動産管理業者に聞き取り調査」
記事は短かった。武蔵野市内で長年賃貸物件を管理する業者が、八十代の独居老人を書類の不備を口実に退去させ、その後しばらくして物件を更地にして売却した、という話だった。老人は現在、市内の福祉施設に入っている。業者の名前は「斑目亮二」。写真は載っていない。聞き取り調査の結果、「法的に問題のある行為は確認されなかった」とある。
コウは赤信号の間、その記事を三回読んだ。
法的に問題のある行為は確認されなかった。
自転車を漕ぎながら、その文言が頭の中でぐるぐると回り続けた。コウはこういう記事が苦手だった。正確には、この種の結論が苦手だった。問題のある行為は確認されなかった——それは何もなかったということではない。ただ証明できなかった、あるいはする気がなかった、ということだ。八十代の老人は施設にいる。斑目亮二は事務所にいる。世界はそういう風にできている。
アパートに帰ると、コウは手を洗い、冷蔵庫からビールを出し、テーブルに座った。食欲はなかった。
気づいたら、机の引き出しからノートを出していた。
いつもメモに使っている大学ノートではなく、薄い灰色の表紙のものだった。
コウは三秒ほど考えた。
いや、正確には、考えていなかった。考えるよりも先に、ペンが動いていた。
斑目亮二。
ひらがなと漢字が交じった、どこにでもあるような名前。書き終えてから、コウは少しの間、その文字を見つめた。
おかしな話だと思った。自分が今、何をしたのか、自分でもよくわからなかった。ただ書いた。それだけのことだ。ノートに名前を書いたところで、何も起きない。世界は何も変わらない。斑目亮二は明日も事務所にいる。
コウはノートを閉じた。
ビールを一口飲んで、シャワーを浴びて、ベッドに入った。眠る直前に、自分が書いたのが図書館で拾ったノートではなく自分のメモ帳だったことに気づいた。命名帳は段ボール箱の中だ。
それでよかった、と思った。
あれは持ち主不明の私物で、処理の手順はもう済んでいる。
コウは目を閉じた。十月の夜は静かで、窓の外で風が一本の木を揺らしている音だけがしていた。
翌朝、彼はいつもどおりに起き、いつもどおりに支度をし、自転車で図書館へ向かった。蛍光灯が白く点灯する開館前の館内を歩きながら、昨夜のことは何も考えていなかった——少なくとも、そう思っていた。
カウンター後ろの段ボール箱を通り過ぎるとき、一瞬だけ足が遅くなった。
命名帳は、そこにあった。
コウはそのまま歩き続けた。仕事の始まりを告げる館内チャイムが鳴り、最初の利用者が入ってきた。いつもと変わらない一日が始まった。
ただ、その日の午後、分類作業をしながらふと思ったのは——あのノートの紙は、やけに厚かった、ということだった。手で触れたとき、普通の紙とは少し違う感触があった。滑らかすぎず、粗すぎず、何かを書いたら、インクが吸い込まれていくような、そういう紙だった。
コウはその思考を棚の奥に押し込んで、次の本の背表紙を確認した。
それで終わりにするはずだった。