蛍光灯の白い光が、まぶたの裏を焼いた。
冷たい空気が肺を満たした。消毒液と、古い紙と、人間の恐怖が混ざり合った匂い——その複合臭を鼻腔が認識した瞬間、夜神月の意識は完全に覚醒した。
目を開ける前に、指先を確認した。
何も、なかった。
手のひらを裏返す。また表に返す。ざらついたコンクリートの床の感触だけが指先に返ってくる。あの黒い表紙の感触も、紙の微かな凹凸も、ない。
*ノートが、ない。*
月はゆっくりと上体を起こした。頭痛はない。吐き気もない。奇妙なほど身体の状態は正常だった。それがかえって不自然だと、彼の思考回路は即座に記録した。人間が意識を失って床に倒れれば、少なくとも筋肉の硬直か頭部への軽微な衝撃の痕跡が残るはずだ。だがどこも痛まない。まるで最初からここに座っていたかのように、身体は何事もなかった顔をしている。
周囲を見渡した。
縦長の部屋だった。壁は灰色のコンクリート打ちっぱなし、天井には防護カバー付きの蛍光灯が等間隔に並び、窓は一つもない。左手の壁に沿って金属製の机が六台連なり、それぞれの机上に大型モニターが置かれている。右手には高さ二メートルほどのホワイトボードが三枚、継ぎ目なく並べられ、数式と図表が隙間なく書き込まれていた——漢字と、アラビア数字と、英文字が混在した記述様式。
*中国語だ。*
そして人間が、七人いた。
誰一人として月に気づいていなかった。それぞれが自分の画面に向かって、あるいはホワイトボードに向かって、あるいは互いに向かって何かを喋り続けていた。その声が重なり合って部屋の中に充満していたが、月は個々の声を意識的に分離して聞き取り始めた。
「——修正後の軌道計算では誤差が一・七パーセント縮小していますが、根本的な問題は——」
「報告書はもう上に送った。今さら計算を変えても——」
「変えるんじゃない、精度を上げるんだ。上層部はまだ理解していない。あの数字が何を意味するか——」
月は壁際に背を預けたまま、それらの声を処理し続けた。「上層部」「報告書」「軌道計算」。軍事施設か、あるいはそれに類する研究機関だ。民間の研究所の人間はこういう話し方をしない。言葉の端々に、階層構造に慣れた人間特有の緊張感があった。
最も年長と思われる男が、部屋の中央に立っていた。六十代前半、白髪混じりの短髪、眼鏡の奥の目が深く落ち窪んでいる。彼だけが画面ではなく部屋全体を見ていた——指揮官の目だ、と月は分類した。自分が動かなければ何も動かないと知っている人間の目。しかし今この瞬間、その目には疲弊が滲んでいた。長期的な重圧に晒され続けた結果の疲弊で、一晩二晩の睡眠不足では説明がつかない種類の消耗だった。
*何かが、この人々を長い時間をかけて追い詰めている。*
中央のモニターに、月は視線を移した。
画面上には複数の数列が表示されていた。赤い数字が規則正しく変動している。カウントダウンだ、と月はすぐに理解した。ただし規模が桁違いだった。最上段の数値は「1,460日」を超えていた——つまり約四年。その下に「時間」「分」「秒」が続いている。何かが、四年後に来る。
*何が来る?*
モニターの背景に、薄く地図が表示されていた。太陽系の図だった。その端に、細い軌跡が描かれていた。外から来る何かの軌跡。
月の思考が一段、速度を上げた。
外から来る。カウントダウン。軍事研究施設。研究者たちの顔に刻まれた疲弊の深さ。
「——探針の最新データでは、やはり減速の兆候がない。予定軌道通りだ」
「つまり意図的に来ているということか」
「最初からそれ以外の解釈はない」
*意図的に。*
月はゆっくりと立ち上がった。
その動作は、なんの音も立てなかった。あえてそうした。七人の誰かが振り返るまでの数秒間、月は立ったまま部屋を改めて見渡し、出口の位置を確認し、それぞれの人物の身体的特徴と感情状態を更新した。
ドアは一つ、部屋の奥だった。外側から施錠される構造に見えたが、内側のパネルに電子キーの受信部がある。今この瞬間、施錠されていない可能性が高い——施錠が必要な状況であれば、入り口付近に監視要員が配置されているはずだからだ。
七人の中で一番若い研究者が、ようやく月に気づいた。
二十代後半の男だった。丸眼鏡をかけ、書類を何枚か手に持っている。目が大きく見開かれ、書類が床に落ちた。その音で、他の六人が一斉に振り返った。
沈黙が部屋を満たした。
*ここからだ。*
月は一歩、前に出た。その一歩は、慌てていなかった。まごついてもいなかった。状況を理解した人間が、準備を整えて動き出す、そういう一歩だった。
「失礼しました」と月は言った。標準的な中国語で。「起こしてしまいましたか」
起こした。その言葉の選択は意図的だった。自分が眠っていたことを、当然のこととして既成事実化する。なぜここに、という問いを、いつから、という問いにすり替える。
「あなたは——」年長の男が、低い声で言った。「誰だ」
「劉副所長から連絡が行っていなかったでしょうか」月は眉を僅かに寄せた。困惑と、軽微な不満を混ぜた表情。「昨日の段階では手続きが完了したと聞いていたのですが」
劉副所長。その名前は、部屋の中に入ってから三十秒の間に、会話の断片から拾い上げた名前だった。「副所長に確認する」「劉さんの判断が必要だ」——その劉だ。ただし現在、この場に劉という人物はいない。今日は来ていないのか、それとも来られない事情があるのか。
年長の男の表情が、微妙に変化した。
目が、わずかに逸れた。
*いない。しかも、永続的に。*
月は確信した。劉副所長は、最近になって、この施設に来られない状態になった。病気か、更迭か、あるいは死亡か。いずれにせよ、劉という名前を出した瞬間のこの男の反応は、単なる情報空白ではなく、その名前に付随する何らかの重みを示していた。
「劉副所長は」と年長の男は言った。一拍、空白があった。「先月、亡くなられた」
「——そうでしたか」
月は目を伏せた。二秒間。
*完璧だ。*
「それは存じませんでした。道理で連絡が途絶えていたわけです」月は顔を上げ、年長の男を見た。「失礼ですが、あなたが現在の責任者でいらっしゃいますか」
「陳望だ」男は言った。わずかに顎が上がった——自分の名前を名乗るとき、人間は無意識に姿勢を正す。「この施設の主任研究員を務めている」
「陳先生」月は軽く頭を下げた。「夜神月と申します。システム分析の分野で劉副所長と共同研究を行っておりました。今回の件について、私からお手伝いできることがあれば——」
「システム分析?」丸眼鏡の若い研究者が、まだ呆然とした顔で言った。「この施設で必要なのは天体物理学と軌道力学と、あとは——」
「王研究員」陳望が、静かに制した。
若い研究者——王という姓らしかった——が口を閉じた。
月は陳望の顔を見た。陳望は月の顔を見ていた。長い付き合いのある研究者が見せる類の、相手を値踏みする目だった。疑っている。当然だ。だが同時に、必要としている。それがこの目の奥にある本質だった。何かを、今すぐに、追加の知性を必要としている。
*使える。*
「確認が必要であれば、劉副所長が私に送付したデータを照会できます」月は言った。「ただし、暗号化されていますので、復号には私のアクセスコードが必要になります」
存在しないデータの話をしている。しかし存在しないデータを否定するためには、存在しないデータを照会する必要があり、その照会のプロセスに時間がかかり、その時間の中で月はこの施設についての情報を蓄積できる。
陳望が、ゆっくりと瞬きをした。
「今は時間がない」と彼は言った。「王、彼に一時的な識別証を発行しろ。私の権限で」
「でも——」
「王」
月は、口元が動かないように気をつけながら、胸の中で何かが定まる感触を確かめた。
第一段階、完了。
陳望が背を向け、モニターへと戻っていった。その背中を見ながら、月は改めて部屋の中央に設置された大型画面を眺めた。カウントダウンの数字が、一秒刻みで変動している。四年と少し。
*外から来るものが、四年後に到着する。*
「先生」月は陳望の背中に向けて、静かに言った。「あの軌跡は、どこから来ていますか」
陳望は振り返らなかった。しかしその肩が、ごく微かに強ばった。
「ケンタウルス座アルファ星系の方向だ」と彼は言った。「四・二光年先」
月は画面を見た。数字を見た。軌跡を見た。
*四・二光年先から、意図的に、来ている。*
脳の中で、何かが再配置された。巨大な数式のピースが、一つずつ正しい位置に収まっていくような感覚。ここは研究施設だ。しかしその研究の対象は、地球の外にある。地球の外から来る何かに対して、この部屋の人間たちは、もう長い時間をかけて恐怖し、疲弊し、そして今も対策を練り続けている。
カウントダウンは止まらない。
月は窓のない部屋の壁を見た。コンクリートの灰色が、宇宙の深さを連想させた。いや、正確には逆だ——宇宙の深さが、この部屋の壁の向こうにある、という事実を、月は初めてリアルな質量を持ったものとして感じていた。
死亡ノートは、個人を殺した。
*しかしあの画面の軌跡は——*
王研究員が、ぎこちない動作で識別証を差し出してきた。プラスチックのカードに、写真がない。緊急発行のものだろう。月はそれを受け取り、首にかけた。
「ありがとう」と月は言った。
王が頷き、自分の机に戻ろうとした。月は彼を引き止めるように、もう一言加えた。
「王さん、少し聞いてもいいですか。あのカウントダウンは——いつから表示されているものですか」
「三年前から」王は、少し迷ってから答えた。「最初に観測が確認された時点で、到達予定時刻が算出されて」
「三年間、止まったことは」
「ない」
「減速したことは」
「ない」
月は頷いた。何の感情も顔に出さなかった。しかし内側で、先ほどとは別の種類の再配置が起きていた。
三年間、止まらず、減速せず、意図的に、四・二光年の彼方から来ている。
これは挨拶ではない。
これは、来訪でもない。
*これは、侵略だ。*
月は部屋の壁を、もう一度見た。コンクリートが、今度は薄く感じられた。壁の向こうに夜があり、夜の向こうに空があり、空の向こうに宇宙があり、その宇宙の中の特定の座標から、何かがこちらに向かっている。
死亡ノートを失った。
神の道具を失った。
*しかし。*
月は、モニターに映るカウントダウンを見た。赤い数字が、また一秒分、減った。
ゲーム盤の大きさが違うだけだ。
個人を裁くゲームから、文明を裁くゲームへ。ノートという道具から、論理という道具へ。コマの規模が変わっても、本質は変わらない——この宇宙には、必ずルールがある。そしてルールがある限り、そのルールを最も深く理解した者が、最終的に盤面を支配する。
*私がそれになる。*
部屋の隅で、一瞬だけ、蛍光灯が微かに揺れた。
気のせいかもしれなかった。空調の振動かもしれなかった。しかし月は、その一瞬に、背中の側から何かの気配を感じた——気配というより、視線。しかしどこにも人はいなかった。
月は首を振り、モニターに向き直った。
カウントダウンが続いている。
宇宙が、待っている。