風が死んでいた。
それがナウシカの最初の認識だった。地平線から地平線へ、谷の風は大地の呼吸のように絶えず吹き続けるものだった——朝露を含んだ柔らかな初風、昼の熱気を孕んだうねり、夕暮れに青白く冷える流れ。風の谷という名は、その土地が命名したのではなく、風の方が先に住んでいたのだという話を、幼い頃に老婆から聞いた。人間はあとから間借りしたに過ぎない。
しかし今この瞬間、風が止まっていた。
大地の鳴動が始まったのは夜明け前だった。最初は遠雷に似た低い共鳴として谷壁に伝わり、次第に骨の芯まで届く規則的な打撃音へと変わった。ナウシカが羊の毛布を蹴り飛ばして跳び起きたとき、窓の外の砂塵はすでに橙色の霧を成し、地面が生き物のように波打っていた。
王蟲だ、と彼女は思った。それ以外にあの音を立てるものはない。
彼女は城壁の上に駆け上がった。革の飛行服はまだ半分しか着ていなかった。夜気は乾燥した胞子の匂いを帯びており、喉の奥でざらりとする。マスクを引き上げながら、視界に飛び込んでくる光景を目が正しく処理するまでに一瞬かかった。
谷の入り口を埋め尽くすように、王蟲の群れが来ていた。
数は百や二百ではなかった。丘の稜線がそのままうねり動いているように見えた。甲殻の赤みがかった橙色が朝の霞に滲み、何百という複眼が怒りの赤に燃えていた——あの色は知っている。あの色が見えるとき、王蟲はもはや止まらない。群れとしての意志が個を凌駕し、大地そのものが動き出したも同然の状態になる。
「姫様!」
背後で誰かが呼ぶ声がした。老兵のギルが、槍を抱えたまま蒼白な顔で走ってきた。白髪の眉が恐怖と怒りの中間で激しく動いている。
「逃げなさい!防壁を閉じてすぐに——」
「閉じても意味がない」ナウシカは言った。声は自分でも驚くほど静かだった。「あの数が来たら、谷の壁ごと崩される」
「ならば飛行船で——」
「人が全員乗れるだけの時間がない」
ギルは言葉に詰まった。老いた戦士の目に、認めたくない計算が走るのを見た。ナウシカは視線を王蟲の群れに戻した。
風が止まった理由が今わかった。群れの発する振動と熱が大気を押し潰し、谷特有の気流を乱しているのだ。自然の摂理をその巨大な存在感だけで書き換えてしまう——それが王蟲という生き物の本質だった。
なぜ来たのか。
ナウシカは考えながら城壁を降り、谷の正門に向かって走った。靴の裏が石畳の感触を刻む。砂埃が口の中に入る。谷の村人たちが恐怖に固まって路地の奥から覗いている。子供を抱えた母親の目と一瞬合った。怖いな、と思った。怖くないわけがない。しかし恐怖はあとで感じるものだと、いつの頃からか体が知っている。
正門を出た先、谷と腐海の境目に当たる枯れ野に立ったとき、王蟲の群れの先頭まで五百メートルもなかった。
その近さで見ると、圧迫感は別次元だった。先頭の個体は成体で、甲殻の幅が家屋ほどもある。足の一本一本が丸太のようで、踏みしめるたびに地面が陥没している。百しか超えていない複眼が、怒りの赤から血の色に変わっていた。後続の個体が押し寄せ、群れ全体が一つの巨大な生命として谷に向かって迫っていた。
轟音。砂の臭い。甲殻同士が触れ合う硬い摩擦音。
ナウシカは両腕を広げた。
後ろでギルが叫んでいる声が聞こえた。「姫様っ!」それから他の声も。しかし彼女は立ったまま動かなかった。
腕を広げるのは合図ではない。脅しでもない。これは問いかけだ。私はここにいる。私は逃げていない。お前たちが何を感じているか、聞かせてくれ。
王蟲との対話は言語では起きない。ナウシカ自身もそれを言葉で説明することができない。ただ幼い頃から、彼女は蟲たちの感情の輪郭を体で受け取ることができた。怒りは胸の中央に鉛が詰まるような重さとして、悲しみは耳の奥で鳴り続ける低音として、好奇心は指先のざわめきとして。それが正確に何であるかは問題ではない。受け取れるということが大切なのだ。
先頭の王蟲が五十メートル手前で速度を落とした。
周囲の群れが連鎖するように揺れを変える。複眼の色が——ほんの一瞬——赤の奥に橙の粒子が混じった。
そこで初めて、ナウシカは受け取った。
痛みだった。
怒りではなく痛みだった。圧倒的な、個ではなく群れ全体を貫く苦悶が、波のように彼女の胸に流れ込んできた。膝が揺れそうになるのを踏みとどまった。目の奥が熱くなる。
どこかで何かが起きている。何かが傷つけられた。群れの痛みはそういうものだ——巣の一部が壊された、仲間が死んだ、あるいは腐海の深部で何か取り返しのつかないことが起きた。怒りはその痛みが形を変えたもので、群れは方向を持った巨大な悲嘆として今ここに来ている。
ナウシカは目を閉じた。
受け取る。拒絶しない。押し返さない。これが唯一の方法だ。
痛みが流れ込んできた。腐海の何千年もの時間の層から染み出すような悲しみ。失われたものへの怒り。止めようのない何かへの抵抗。それを自分の体で受けながら、ナウシカは自分の方からも返した——谷の風の記憶を、土の匂いを、子供たちの笑い声を、春に白く咲く小さな花を。死なせたくない、と思った。あなたたちを。私たちを。どちらも。
先頭の王蟲が止まった。
轟音が変化した。それはまだ凄まじい音だったが、突撃の音ではなくなっていた。何百という甲殻が互いを押し合いながらも、前進の勢いが失われていく。複眼が——橙に——
そのとき、大地の深くから別の振動が来た。
王蟲の群れが発するものではなかった。腐海の底から来るものでもなかった。地核から来るものでもなかった。それはどこか、空間の裏側から来るものだった。周波数を持たない振動、色を持たない光、音でも沈黙でもない何か。
王蟲の複眼が全て、同時に、ナウシカを見た。
一瞬だった。
千の複眼が一人の少女を見る、その一瞬に、時間が素材を変えた。空気の質感が変わった。砂塵が静止した。風が止まっていた場所に、風とは異なる何かが満ちた。
光の渦が生まれた。
腐海の胞子が青白く発光することがある。しかしこれは違った。金色だった。王蟲の複眼の色——静穏を取り戻したときの、あの深い暖かい金——が、空中で渦を巻いていた。ナウシカの両腕の間に、それが生まれた。
彼女は恐れなかった。
恐れる前に理解した。群れが何かを——彼女に向けて——放出している。長年受け取り続けてきた感情の流れが、今この瞬間に別の何かと触れ合い、形を持った。何と触れ合ったかは分からなかった。しかしそれは確かに存在した、空間の向こう側に。
渦が広がった。谷の入り口が、家々の輪郭が、城壁が、ギルの叫ぶ声が、全て渦の中に溶けていった。
痛くはなかった。引き裂かれる感覚もなかった。むしろ——潮に乗るような、風に体を預けるような、抵抗を手放したときの感覚に似ていた。
最後に残ったのは視覚だけだった。
千の王蟲の目が、金色に輝きながら、彼女を見ていた。その目の奥に——悲しみと、感謝と、謝罪と、それらの言葉では足りない何かが、光として満ちていた。彼女はその光の中に引き込まれながら、奇妙なことを思った。
あなたたちは知っていたのだ、と。
私がどこへ行くかではなく、私が行かなければならないということを、あなたたちはずっと前から知っていたのかもしれない。腐海が長い時間をかけて何かを浄化しているように、この宇宙も長い時間をかけて何かを待っているのかもしれない。そしてその待機の中で、私は何かの役割を割り当てられている。
谷の風が——止まっていた風が——最後の一瞬だけ、ナウシカの頬に触れた。
土の匂いがした。青い草の匂いがした。
それから、何もかもが消えた。
暗闇だった。
完全な、音のない、重力の方向さえ分からない暗闇だった。
ナウシカが最初に感じたのは冷気だった。肌ではなく、どこか体の内側から来るような寒さ。次に、自分が横になっていること。硬い床ではなく、何か柔らかい素材に包まれている。そして呼吸ができている。その事実が奇妙なほど、意識の表面に浮き上がった。呼吸ができている。
目を開けようとして、できなかった。
瞼が石のように重かった。指先を動かそうとした。動いた。小さく、不確かに、しかし動いた。その感覚を手掛かりに、ゆっくりと意識を積み上げていく。体が自分のものであることを確認する。指、手首、腕、肩。足。
目が、開いた。
見えたのは透明な天井だった。厚さ十センチほどの透明な板が、鼻先三十センチのところにある。その向こうは暗かった。しかし完全な暗闇ではなかった。微かな赤い光が、遠くから、天井の向こうを染めていた。警告灯のようなものだろうか——そういう概念が自分の中にあることを、彼女自身が少し不思議に思った。
体を動かそうとすると、腕が何かに当たった。狭い。左右に手を広げると、両手のひらが同時に壁に触れた。上に手を伸ばすと、すぐに天井に触れた。
閉じ込められている。
恐慌は来なかった。腐海の迷宮で、毒霧の中で、崩落する洞窟で——狭さそのものを恐れる感覚は、ずっと昔に別の何かに変換された。代わりに体が情報を集め始めた。どんな素材か。どこから空気が来ているか。何の音がするか。
音は、しなかった。
それが最も奇妙なことだった。風の谷に音のない瞬間などなかった。常にどこかで風が鳴り、鳥が鳴き、虫が鳴き、人が話し、水が流れていた。しかし今、自分の呼吸以外に何も聞こえなかった。呼吸が透明な壁の内側で反響して、自分の音がこんなにも大きいのだということを初めて知った。
赤い光が点滅した。
何かが動いている気配があった。透明な天井の向こうで、影が横切った。人の形に似ていた。ナウシカは壁を拳で叩いた。柔らかい音しか出なかった。もう一度、今度は開いた手のひらで強く。
光の色が変わった。赤から白へ。
天井に亀裂が走るような音がして——しかしそれは亀裂ではなかった、何かが外から開いているのだと少し遅れて理解した——冷気とは別の空気が流れ込んできた。
その空気を吸った瞬間、ナウシカはある事実を知った。
ここには腐海がない、と。
腐海の空気は毒を含んでいる。人体には有害な微細な胞子が常に漂っている。だからマスクが必要だ。しかし今吸い込んだ空気には——何もなかった。無味無臭に近い。腐海の気息も、土の匂いも、花粉も、何も含んでいない。
これは自分の知っている世界の空気ではない。
その認識が静かに落ちてきたとき、透明な天井が完全に持ち上がり、光に照らされた誰かの顔が、ナウシカを覗き込んだ。
言葉が聞こえた。音の配列として。しかし意味が取れなかった。知っている言語ではなかった。あるいは知っている言語なのに、どこか根本的に変容していた。
顔は男のものだった。年齢は判断できなかった。疲れた目をしていた。深いところで何かが摩耗している目。長い時間をかけて何かを計算し続けてきた目。その目がナウシカを見て、一瞬——ほんの一瞬だけ——何か別のものが過ぎった。悲しみに似た何かが。
男は振り返り、後ろに向けて何かを言った。
別の声が答えた。複数の足音が近づいてくる。
ナウシカは自分が何も知らない場所にいることを、完全に理解した。知っている地形も、知っている空気も、知っている生き物も、ここにはない。風も、腐海も、王蟲も——
王蟲の目の金色が、暗闇の奥に残像のように浮かんでいた。
あの目が、彼女をここへ送った。
意味があるはずだ、とナウシカは思った。恐れではなく、ある種の落ち着いた確信として。腐海が千年をかけて無意味に広がったのではないように、あの光の渦も無意味にここへ彼女を連れてきたのではない。何かを待っている場所がある。何かを必要としている場所が。
白い光の中で、男の疲れた目がまたナウシカを見た。
ナウシカは上半身を起こし、その目をまっすぐに見返した。
何を失ったのかはまだ分からなかった。何のためにここにいるのかも分からなかった。しかし、王蟲の最後の眼差しの温かさが、まだ胸の奥で灯っていた。
風の谷から来た、とナウシカは思った。
だから、ここでも、風を探す。