花は夜を知らない——
夜もまた、花が散ることを知らない。
山の暮れは早い。
背負い紐が右肩に食い込む感触を、宗太郎はもう感覚として認識していなかった。痛みとは長く付き合えば友人になる。炭俵の重みも、下り坂の傾斜が膝の裏へ刻みつける鈍い軋みも、そういうものだった。十七の年から数えて四年——体がひとつの道具に成り代わっていくのに、それほどの時間はかからなかった。
杉の梢が風に揺れ、その隙間から夕空がのぞいている。藍と橙が混じり合う、あの奇妙な色だ。どちらの色も相手を許さぬまま、ただ時間の力でじわじわと溶け合っていく。宗太郎はそういう空を好んでいた。綺麗だとは思わない。ただ、正直だと感じた。
「もう一番瀬で売れたら、白米が買える」
声に出してみる。誰もいない山道で言葉を発するのは、足を踏み出し続けるための方便だ。声の重さで、体を前へ引っ張る。
桜子が白米を好いていた。麦飯に少し混ぜただけでも、あの子は目を細めて両手を合わせる。いただきます、と言う声が、いつも一音ぶん高くなる。思い出すだけで、宗太郎の口の端が微かに動いた。笑いではなく、笑いの名残のようなもの。
坂を下りきったところで、木立が途切れる。眼下に萱葺き屋根が三つ四つ、夕闇の中に沈みかけていた。村と呼ぶには小さすぎる集落——緋山の家は、その一番奥まった場所にある。
宗太郎は鼻で息をした。
山の空気はいつも炭の匂いがする。自分がそれを運んでいるせいなのか、それとも山そのものがそういう匂いを持つのか、もはや区別がつかない。だが今夜の空気には、何か別のものが混じっていた。
獣の血の匂い、とはまた違う。
もっと重いもの。もっと古いもの。
宗太郎の足が、知らず知らずのうちに速まっていた。
家の前に着いたとき、戸は半分開いていた。
おかしい、と思う前に体が動いていた。炭俵を土間へ降ろす音が、いつもより鈍く響いた気がした。あるいは響かなかったのかもしれない。記憶の中で、その音は存在しない。
「母さん」
返事がない。
「母さん、ただいま」
囲炉裏の火は、まだかすかに生きていた。その赤い明かりの中に、宗太郎は見た。
最初に見えたのは父の手だった。大きな手だった。炭焼き窯を何十年と扱ってきた、節くれだった指が、板の間に向かって伸びている。その先に何があるか確かめる前に、宗太郎の目は自然と視線を逸らした。人間の目というものは、見てはいけないものを本能で知っている。
しかし逸らした先にも、あった。
母が、いた——という言い方は正確ではない。母だったものが、そこにあった。台所との間仕切りに背を預けるように倒れていて、手には椀を持ったままだった。夕餉の支度をしていたのだろう。椀の中の水がこぼれて、板の間に弧を描いていた。
弟たちは。
考える前に、宗太郎の目が奥の間を探していた。
俊之と和雄、九つと六つ。いつも取っ組み合いをしながら眠る、あの二人。
見つけた。
見つけた、という言葉を使うのが正しいかどうか、今でも宗太郎にはわからない。
その後どれほどの時間が経ったか、覚えていない。
囲炉裏の火が落ちる寸前になって、宗太郎はようやく体が動いた。動いた、というより、動かされた——何かの力で、膝から崩れるように床に両手をついていた。
荒い息だった。泣いているわけではなかった。ただ、肺が空気の扱い方を忘れてしまったように、不規則な呼吸が喉の奥から出てきた。
それから、音を聞いた。
微かな音だった。板の間の下から——床板の継ぎ目から、かすかに、かすかに。
息をしている音だった。
宗太郎は這いずるように動いた。土間から奥の間へ。押し入れの脇にある、床板の一枚が少し浮いていた。古い家の、古い隠し場所だ。子どもの頃、よく遊んだ。
手をかけて、板を持ち上げた。
暗い。土の匂い。埃と、それから——
血の匂いが、下から上がってきた。
「桜子」
声が出なかった。声を出そうとして、喉が締まった。もう一度。
「桜子」
闇の中で、何かが動いた。
小さな、丸まった影が、ゆっくりと顔を上げた。
宗太郎の妹は、十四だった。細い体に、母から譲り受けた黒髪を持つ、色の薄い顔の娘だった。笑うと目尻に小さな皺ができて、笑っていなくても何となく笑っているように見える、そういう顔つきをしていた。
今、その顔は——
宗太郎は息を呑んだ。
目が、変わっていた。
虹彩の色が違う、ということではなかった。色は同じだった。ただ、その奥にあるものが——深度が、違った。人間の目の底というものは、どんなに暗くても、どこかに終わりがある。しかし今、桜子の目を覗き込んだ宗太郎は、底を見つけられなかった。どこまでも続く、暗い水のような深さ。
そして、桜子の口の端に、乾いた黒ずみがあった。
「……おに、い」
唇が動いた。声、とは呼べないほど小さな音だった。しかしそれは確かに、あの声だった。白米が出た日にひとつ高くなる、あの声の、残骸だった。
何かが宗太郎の胸の中で、静かに崩れた。
崩れた、というのも正確ではない。もともとそこに建っていたものが、崩れる音すら立てずに、ただなくなった。
宗太郎は腰を降ろした。床板の隙間に両腕を差し入れて、桜子の体を抱え上げた。軽かった。こんなに軽かったか、と思った。いつから妹はこんなに軽くなっていたのか。
桜子の体が、小刻みに震えていた。寒さではなかった。内側から来る震えだった。
「大丈夫だ」
嘘だった。しかし他に言える言葉がなかった。
「兄ちゃんがいる」
これは、嘘ではなかった。
妹を土間へ引き上げ、宗太郎は桜子を抱いたまま座った。腰に差した刃物の柄が、腿に当たっていた。気づいていた。気づいていて、手は伸ばさなかった。
外は暗くなっていた。月もなかった。
桜子の呼吸が、宗太郎の胸の上で続いていた。規則的ではなかった。時々、細くなって、消えそうになって、また戻った。震えはなかなか収まらなかったが、宗太郎は腕の力を緩めなかった。
腐葉土の匂いがした。杉の匂い。炭の匂い。それから、血の匂い。
囲炉裏の残り火が、じじ、と音を立てて、小さくなった。
家の中は静かだった。
今まで感じたことのない静かさだった——父の大きな体が立てる、ふいごのような寝息がなかった。母がまな板を叩く音がなかった。俊之が和雄を追い回す足音がなかった。宗太郎がこの家に生まれてから二十一年間、その家の底に流れ続けていた音が、根こそぎ消えていた。
残ったのは、桜子の呼吸と、自分の心臓の音だけだった。
夜が長かった。
山の夜は冷える。それは宗太郎が生まれる前から変わらない事実だったが、今夜の寒さはいつもと種類が違った。外の温度ではなく、内側から来る寒さだった。
桜子が、時々、宗太郎の腕の中で何かに抗うように身じろぎした。細い手が宗太郎の袖を掴んだり、離したりした。宗太郎はその手を、自分の手で包んだ。冷たかった。指の先が、人間のそれよりも少し尖っていた。
気づいていた。
気づいていて、手を離さなかった。
明け方になって、空が白み始めた頃、桜子の震えがようやく収まった。疲れ果てて眠ったのか、それとも別の理由でそうなったのか、宗太郎にはわからなかった。ただ、腕の中の体から力が抜けて、呼吸が深くなった。
宗太郎は外を見た。
東の山の稜線が、鈍い白に縁取られていた。
夜が終わろうとしていた。しかし宗太郎には、それが夜明けとは思えなかった。ただ暗さの種類が変わっただけのように感じた。昨日と同じ世界が、昨日と同じ顔をして、こちらをのぞいているだけのように。
白米を買う予定だった、と宗太郎は思った。
桜子が好きだから、少し高くても今日は白米を買うつもりだった。
その考えが、なぜか今になって、胸の奥に返ってきた。ただそれだけのことが、刃物のように。
宗太郎は桜子を抱いたまま、ひとつ息を吐いた。
長い、静かな息だった。
泣かなかった。泣き方を、忘れたわけではなかった。ただ——泣いてしまえば、そこで何かが決まってしまう気がした。終わりの形が、決まってしまう気がした。
だから泣かなかった。
その代わりに、桜子の頭に顎を乗せて、ただそこにいた。
空が少しずつ白くなっていった。
白くはなったが、明るくはならなかった。少なくとも、宗太郎にはそう見えた。