Chapter 1: The Notebook in the Corner of Nomura's Shop

雨が降り始めたのは、会議が終わった直後だった。

窓の外でアスファルトが黒く濡れていくのを、田中誠は会議室のガラス越しに見ていた。見ていた、というより、そこしか見るものがなかった。正確には、そこしか見てはいけない場所がなかった。前を向けば桂木課長の横顔があり、隣を向けば同僚たちの拍手があり、どこを向いても同じ光景が広がっていた。おめでとうございます、素晴らしいご提案でした、さすが課長、と。

田中は十年かけて積み上げた数字の塔が崩れていく音を、ちゃんと聞いた。音はしなかったけれど、ちゃんと聞こえた。

「田中くん、どうした。顔色悪いぞ」

隣の席の佐々木が小声で言った。彼は三十二歳で、まだ物事に驚ける年齢だった。

「大丈夫です」と田中は言った。自分の声が遠かった。「少しのどが渇いて」

桂木課長は壇上で笑っていた。五十代の男の笑顔というのはどうしてこうも安定しているのだろう、と田中は思った。三十年かけて作り上げた笑顔は、もう何も揺るがさない。上等なスーツの胸ポケットに高そうなペンが差してある。万年筆だ。田中はそのペンを知っていた。桂木が気に入りの万年筆で稟議書に署名する横で、自分はいつもボールペンを使っていた。自分が書いた文章に、自分のペンで署名したことが一度もなかった。

会議が解散になると、田中は早足で廊下を出た。エレベーターは混む。非常階段を降り、裏口から外に出た。雨は本降りになっていた。傘を持っていなかった。

どうでもよかった。

市役所の裏通りを東に歩いた。濡れながら歩いた。革靴の底から水が染みてきても、足を止めなかった。信号を二つ渡り、路地を一本折れたところで、ようやく立ち止まった。

前を見ると、桂木の背中があった。

玄関に向かうタクシーを待っているのか、傘を差して携帯電話で話しながら、こちらに気づかず立っていた。笑い声が雨の中に混じった。「そうそう、今日の件なんだけどね」と桂木の声がした。「なかなか上手くまとめられたと思うよ、うん」

田中は咄嗟に路地へ引き返した。右に折れ、また折れ、気がつけば一本入った細い道の前に立っていた。

古い店だった。

木製の看板に「野村文具店」とあった。文字は薄れていて、雨に濡れるとほとんど読めなかった。ショーウィンドウには便箋と封筒と定規が並んでいたが、どれも日付けの感覚を失ったように埃をかぶっていた。ドアの上部にガラスが嵌まっていて、内側から黄色い光が漏れていた。

田中は迷わず中に入った。迷わず、と書くと意志があったように聞こえるが、実際は雨を避ける場所が必要だっただけだ。それ以上の理由は何もなかった。

ドアを開けると鈴が鳴った。

店内はせまかった。両側の棚に文房具が詰まっていた。万年筆、ボールペン、色鉛筆の缶、スケッチブック、便箋のセット、押印台、スタンプの蓋が並ぶトレイ。天井から電球が一つぶら下がっていて、黄色い光を落としていた。床板がきしんだ。インクと古い紙の匂いがした。

「いらっしゃい」

奥から声がした。

カウンターの向こうに老女が座っていた。七十代だろうか。背筋が真っ直ぐで、白髪を後ろでまとめていた。眼鏡の奥の目が細く、何かを測るような光を持っていた。

「雨ですね」と老女は言った。

「ええ」と田中は言いながら、靴の底で水を踏んだ。「急に降ってきて」

「傘、お持ちじゃないんですか」

「うっかりしていました」

老女は小さく頷いた。それ以上、追及しなかった。田中はそれがありがたかった。余計なことを言わない人間というのは、思ったより少ない。

店の中を歩いた。買うものは特になかった。正確に言えば、何かを買うためにここに入ったわけではなかった。ただ、棚を見ながら歩くのは悪くなかった。整然と並んだ物たちは、今日の会議室とは別の世界から来たものに見えた。ここにある鉛筆は、誰かの手柄を横取りしない。定規は、嘘をつかない。

店の奥、棚と棚の隙間に、折り畳み式の小テーブルがあった。そこに数冊の本が重ねてあった。古い文庫本と、辞書と、それから、手帳が一冊。

手帳は他のものとは少し違う雰囲気を持っていた。布張りの表紙で、濃い藍色だった。大きさはB6より少し小さいくらい。厚みは薄かった。背表紙に何も書いていない。値札がついていなかった。

何故手に取ったのか、田中には説明できない。棚から浮いているように見えた、と言えばいいか。正確な言い方をすれば、他のものは棚に属していたが、その手帳だけが、棚の上で待っていた。待っている、と使うのは大げさだとわかっている。でも、他に適切な言葉が見つからなかった。

表紙を開いた。

ページは白かった。まったくの白ではなく、薄い罫線が引いてあった。裏表紙の内側に、一行だけ文字があった。手書きで、万年筆らしき黒いインクで書かれていた。癖の少ない、整った字だった。

「名前を書け。理由を書け。七日間。」

以上だった。それだけだった。

田中は一度、表紙を閉じた。もう一度開いた。文字は変わらなかった。誰かのメモだろうか。あるいは、この手帳は元々何かのゲームの道具で、持ち主が置いていったのか。

ともかく、なんでもない。

「それ、お気に召しましたか」

カウンターから老女の声がした。

田中は振り返った。「あの、値段が書いていないんですが」

「ええ」老女は言った。

「いくらですか」

老女はしばらく黙っていた。田中を見た。品定めするように。あるいは、確認するように。

「持って行っていいですよ」と彼女は言った。「代金はいりません」

「それは困ります」田中は反射的に言った。市役所勤めの性分で、無償のものを受け取るのには慣れていない。「何かお代を」

「もらいたくないんです」老女は言った。声は穏やかだったが、その奥に何かがあった。「ずっと持っていたんですが、ずっと、誰かが来るのを待っていました。今日、あなたが来てくれた」

田中は困った。困って、手帳を見た。藍色の表紙。何の変哲もない、薄い手帳だ。

「あなた、名前は」と老女が言った。

「田中です。田中誠」

老女は頷いた。「野村です。野村玲子といいます」彼女は立ち上がり、カウンターの下から傘を取り出した。ビニール傘だった。「これも持って行きなさい。うちに余っているから」

田中は手帳と傘を両方持って、店を出た。外はまだ雨が降っていた。

バスに乗り、最寄り駅で降り、徒歩十分のアパートに帰った。濡れた靴を脱ぎ、コートを干し、台所のポットにスイッチを入れた。インスタントコーヒーをマグカップに入れた。そのマグカップには、ひびが入っていた。取っ手の付け根から底に向かって走る細い亀裂で、いつからあったかもう覚えていないが、まだ使えるので捨てていなかった。捨てる理由がなかった。

コーヒーを注ぎ、テーブルに座り、手帳を置いた。

マグカップと手帳が並んだ。マグカップのコーヒーから湯気が立った。手帳は静かだった。

「名前を書け。理由を書け。七日間。」

田中はコーヒーを一口飲んだ。熱かった。苦かった。目を閉じると、今日の会議室が戻ってきた。桂木課長の笑顔が戻ってきた。拍手の音が戻ってきた。十年分の数字が、一瞬で他人の名前になる瞬間が戻ってきた。

ばかばかしい、と思った。

手帳を開いた。

一ページ目の白さは動じなかった。動じるはずがない。紙だから。田中は表紙を閉じた。閉じて、また眺めた。藍色の布張り。値札のない手帳。七日間、という言葉。

くだらない、と声に出して言った。

コーヒーを飲み終えた。マグカップを洗った。歯を磨いた。布団に入った。

手帳は、テーブルの上に置いたままにした。

捨てなかった理由は特にない。ただ、捨てる理由が、見つからなかった。

布団の中で天井を見ながら、田中は桂木課長のフルネームをもう一度、頭の中で確かめた。

桂木宏。

書いたわけではない。ただ確かめただけだ。名前と顔が、一致しているかどうか。それだけだ。

雨はまだ降っていた。

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