Chapter 1: The Agency on Koenji's Back Street

煙草の箱を机の引き出しに仕舞い込んで、もう三日になる。

桐島誠司は椅子の背もたれに体重を預け、ラミネート加工の剥がれかけた机の端を眺めた。四十七歳。元刑事。現在の職業は探偵、という言葉を自分に使うとき、まだどこかに引っかかりを感じる。刑事と探偵の間には、給与明細以上の距離があった。

窓の外では高円寺の裏通りが、九月の曇り空の下でいつもと同じ顔をしていた。クリーニング店、金物屋、潰れた居酒屋の跡地に新しく入ったコインランドリー。人通りは少ない。この場所を選んだのは家賃が安かったからで、それ以外の理由はない。少なくとも、そういうことにしてあった。

机の上には薄いファイルが一冊。

「山田様ご依頼件」と表紙にボールペンで書いてある。山田という姓は本名ではなく、電話口でそう名乗った声の主が、週三回、同じ時刻に同じファミリーレストランで誰かと会っている夫の写真を寄越してほしいと言った。金額を提示し、着手金を振り込んだ。桐島は指定の場所で指定の時刻に立ち、デジタルカメラのシャッターを切った。雨の日も、晴れの日も。

証拠はある。依頼人が何をしたいのかも、おおよそ見当がつく。

桐島はファイルを開き、写真の束を確認した。ファミレスのガラス越しに撮った男と女の画像。男は四十代後半、女はそれより十歳ほど若い。二人とも笑っている写真はない。向かい合ってコーヒーカップを持ち、何かを話しているが、唇の動きから読み取れる言葉は「だから」と「もう」くらいのものだ。

桐島は写真をファイルに戻した。

かつては人が死んでいた。被害者の名前、被害者の顔、被害者の部屋の匂い。畳に滲んだ血の色が朝と夕方で変わることを、この目で何度も見てきた。それが今は、生きている人間の昼食の写真を撮る仕事になった。退行とも呼べるし、適正配置とも言える。どちらでもよかった。

引き出しの中の煙草のことを、また考えた。

扉が開いたのは、午前十一時二十分だった。

ノックはなかった。鍵もかかっていなかったから厳密には侵入ではないが、音もなく人間が部屋に現れると、反射的に姿勢が変わる。桐島は椅子を起こし、入口を見た。

工藤光が、コンビニの袋を両手に提げて立っていた。

「おじさん、昼食べた?」

十四歳の声というものは、まだ完全には落ちきっていない。滑らかな高音域と、これから来る低音の予感が混在している。光の声はそのどちらにも安心して居着けないような、宙吊りの音程だった。

「食べていない」

「やっぱり。だと思った」

光は遠慮なく部屋に入り、打ち合わせ用の丸テーブルにコンビニの袋を降ろした。唐揚げ弁当がひとつ、おにぎりが三個、ペットボトルの緑茶。それから文庫本を一冊、袋の外から取り出して机の端に置いた。表紙には数式のような図案が印刷されていた。「論理パズル完全解法」と書いてある。

「学校は」

「月曜と木曜は午後から自由研究の時間なんだけど、うちのクラスの場合それが実質的に自習になってて、本読んでても何も言われない。だから来た」

論理の運び方が一直線で、反論の余地を与えない。桐島は弁当の袋を受け取り、椅子をテーブルに向けた。

「連絡くらいしろ」

「おじさん、電話取らないじゃん」

それは事実だった。桐島は何も言わなかった。

光は文庫本を開き、おにぎりの包装を剥きながら何かを読み始めた。行儀が悪いが、指摘する気力がない。箸を割り、唐揚げを一個口に入れた。冷たい。コンビニの冷蔵ケースから出してそのまま持ってきたのだろう。温める発想がない子供だった。母親の工藤由美がよく言っていた。「あの子、人のことはすごく観察するのに、自分が冷たいご飯を食べているのには気づかないの」

由美は桐島の二歳下の妹で、六年前に離婚してから歯科クリニックの受付に立ち続けている。光を桐島の事務所に寄越すのは週に一度か二度、用件があるときとないときが半々で、どちらの場合も事前連絡はほとんどなかった。桐島が文句を言わないのは、光がここに来ることを内心で許容しているからで、その理由については深く考えないことにしていた。

「このトリック、面白い」

光が本から顔を上げずに言った。

「四面全部鍵のかかった部屋で、外から人を殺す方法。知ってる?」

「知らない」

「嘘だ。おじさんなら知ってる」

桐島は緑茶のキャップを開けた。「本に書いてあるんだろう。そっちを読め」

光は少し笑い、また本に視線を落とした。笑い方がどことなく由美に似ている。口の端だけが動く、主張の少ない笑顔。もっとも由美の場合、それは疲労の産物だったが、光のそれは純粋な知的満足感から来ている。同じ形の感情が、全く異なる土壌から育っていた。

昼食の間、二人はほとんど話さなかった。

光が本を読み、桐島が書類を整理した。換気扇がときどき低く唸った。二ブロック先の商店街から、有線放送の音楽が風に乗って届いた。秋口の高円寺の昼は、こういう音でできていた。

桐島がファイルを棚に戻し、次の仕事の段取りを考え始めたとき、それは来た。

唐突な感覚ではなかった。むしろ静かな速度で、別の時間が現在に滑り込んでくるような——

法廷の蛍光灯が、白かった。

傍聴席の人間の表情は記憶していないが、証人台の木の感触は手のひらに残っている。桐島は自分の声で証言した。証拠の説明をした。被告が現場にいたことを裏付ける状況証拠を、刑事として積み上げた五年分の経験と確信を持って述べた。有罪判決が出た。

正しいと思っていた。

三年後に別の男の自白が出るまで、正しいと思い続けていた。

桐島は机の引き出しを開け、煙草の箱を一秒見て、閉めた。

山田が再婚しようと離婚しようと、それは桐島の領分ではない。写真を渡し、料金を受け取る。それだけの仕事だ。そこには誰の人生も狂わない。少なくとも、桐島の手で直接には。

「ねえ」

光が本を膝に伏せ、窓の外を見ていた。

「あそこ、規制線じゃない?」

桐島は椅子から立ち上がらずに首を伸ばした。窓の向こう、裏通りを二ブロック入った先の交差点付近に、黄色いテープの色が見えた。人の集まり方が、普通ではなかった。野次馬が歩道で立ち止まり、制服姿が二人、人垣を整理している。

確かに規制線だった。

立てる前に、光はもう動いていた。

文庫本を机に残し、コンビニ袋の脇を素通りし、扉を開けて廊下に飛び出した。靴音が階段を駆け下りていく。軽い、速い、迷いのない足音。

「待て」

言葉が追いつかなかった。

桐島は立ち上がり、引き出しの中の手帳を掴み、上着を肩にかけた。三つの動作を最短で繋げながら、すでに階段を降りていた。路地に出ると、光の背中が遠ざかっていくのが見えた。灰色のパーカー、肩に斜めがけにしたショルダーバッグ、走りながらすでに何かを考えているような、前のめりの姿勢。

桐島はそれを追った。

規制線のそばまで来ると、野次馬の隙間から見えるものが増えた。救急車のバックドアが開いている。制服警官が三人。そして私服が一人——

「桐島さん」

振り返ると、西村亜紀子がいた。

グレーのジャケット、バッグを斜めがけにして、規制線の内側からこちらを見ていた。四十二歳、杉並署の刑事。桐島がまだ刑事だった頃の部下で、今はとうに独立した視点を持つ人間になっている。表情に驚きはなかった。まるで桐島がここに来ることを計算していたように、ただ目が合った。

「ちょうどよかった」

西村はそう言い、手にしていた薄い封筒を外套の内ポケットに戻した。渡しかけて、やめた、という動作だった。

「今は、まだ」

それだけ言って、また規制線の内側に目を向けた。

光が規制線のそばで立ち止まり、建物の外壁と窓の位置を交互に確認しながら、鞄からスマートフォンを取り出した。何かのアプリを起動して、画面に数値が表示される。コンパスか角度計か。

桐島は光の背中を見た。

建物は古い集合住宅で、五階建て、外壁に染みが浮いている。三階の一室に光が集まっていた。扉が開いているのが見えた。白い手袋の手が、内側から何かを採取している。

桐島は煙草を持っていなかった。

引き出しの中に置いてきた煙草のことを、また思った。

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Chapter 1: The Agency on Koenji's Back Street — 灰色の推理 ─少年が見えなかった真実─ | GenNovel