シャンパンが噴き上がった瞬間、ヒカルは笑っていた。
泡が弧を描き、クリスタルのフルートに注がれていく。テーブルを囲む女たちが歓声をあげ、その声が個室の防音壁に吸い込まれていく。クリュッグのボトルが六本、ドンペリの金が四本。ボトルリストの数字は一夜で三百万を超えていた。ヒカルはグラスを傾けながら、右隣の女の肩にそっと手を置いた。力の抜けた、それでいて確信に満ちた所作だった。
「もっと笑ってください」と彼は言った。「せっかくの夜なんですから」
女は頬を染めて微笑んだ。ヒカルもまた微笑んだ。鏡と鏡が向き合うように。
ホストクラブ「月光院」は六本木の雑居ビル七階にある。エレベーターが開くと、まず闇が出迎える。次に金と紫の間接照明が浮かび上がり、最後にホストたちの輪郭が現れる——彼らは影から生まれたように見えて、実際には蛍光灯の白さから逃げてきた存在だ。ヒカルはこの店の頂点にいた。ナンバーワン、という肩書きは今更説明を要しない。彼の名前は「光一」であり、夜の世界では「ヒカル」として知られ、フォロワー十八万のインスタグラムには毎夜、シャンパンと影と整いすぎた横顔が投稿された。
コメント欄は常に溢れている。「今夜も綺麗すぎる」「会いに行きたい」「お金貯めてます」。彼はそれらを読まない。
午前一時を過ぎた頃、マネージャーの矢崎が耳元に口を寄せた。
「ヒカルさん、七番が呼んでます。六条マダムじゃなくて、初回の子が」
「わかった」とヒカルは答えたが、すぐには立たなかった。右隣の女がまた何かを話し始めていた。彼女の夫のこと、表参道で買った靴のこと、先週の映画のこと——ヒカルは耳を傾けているように見えて、実際には彼女の声の質感だけを聴いていた。言葉ではなく、孤独の粒度を。
すべての女には固有の孤独がある。ヒカルはそれを嗅ぎ分けることができた。
彼は十九歳でこの世界に入った。当時の父は「お前が何をしようと、私の名前に傷はつかない」と言った。その言葉が許可だったのか侮辱だったのか、いまだにわからない。父は政財界の大物で、週刊誌には「令和の黒幕」と書かれ、ヒカルの存在は——息子がホストをしているという事実は——ある種のスキャンダルとして世間に知られているが、父はそれを否定も肯定もしていない。沈黙が彼の政治だった。
ヒカルにとっては、それもまた一種の美しさだった。否定されない痛みの。
七番の個室での三十分を終え、彼は廊下に出た。矢崎がすかさず手渡す炭酸水を受け取りながら、ヒカルは腕時計を確認した。二時十七分。雨が降っているのは窓のない店内でも感じられた——空調の匂いが、外の湿気を含んで少し重くなる。そういう感覚が彼には備わっていた。
「少し外に出る」と彼は矢崎に告げた。
「あと一時間でVIPタイムですが」
「わかってる」
スタッフ用の非常階段を下り、裏口から路地に出た瞬間、六月の雨が彼の肩を打った。ジャケットが濡れるのも構わず、ヒカルはコンクリートの上に立って煙草を出した。火をつける。煙が雨の中で白くほどけていく。
路地は狭い。向かいには飲食店のダクトと、割れかけたプランターと、濡れた段ボール箱が積まれている。六本木の表通りから五メートルも離れていないのに、ここは別の時間が流れていた。遅くて、湿っていて、誰も名前を持たない場所の時間が。
ヒカルが二口目の煙を吐いたとき、気づいた。
段ボールの陰に、誰かがいる。
しゃがみ込んでいた。膝を抱えて、壁に背を預けて。紫色の髪が雨に濡れて顔に張り付き、その下に白い首筋が見えた。泣いていた——声を出さずに。肩が細かく震えているのだけが、泣いている証拠だった。
ヒカルは立ち止まった。
煙草の煙が雨に消える。ダクトが唸る。表通りからタクシーのクラクションが届いてくる。それ以外は静かだった。
声を出すべきか、引き返すべきか——その問いが彼の中で一瞬浮かんで、浮かんだままで消えた。彼は動いていた。気づいたときにはすでに路地の奥へと歩いていた。
「ねえ」と彼は言った。
少女は顔を上げなかった。
「ここ、ネズミが出るよ」
沈黙があった。それからゆっくりと顔が上がった。濡れた前髪の向こうに目があった。二重で、少し腫れていた。泣いていたのか、もとからそういう目なのか、判別できなかった。
黒目が大きかった。驚いているような、世界の全部が初めてのような、そういう目だった。
ヒカルはその目に見覚えがないのに、懐かしいと感じた。その感覚を彼は分析しなかった。分析するには速すぎる、あるいは深すぎる何かだったからだ。
「……知ってます」と少女は言った。声はかすれていて、しかし低かった。「さっき一匹いました」
「それで泣いてたわけじゃないでしょ」
「泣いてません」
ヒカルはしゃがんだ。彼女と目線を合わせた。距離は一メートル半ほどある。それ以上近づかなかった。
少女はヒカルの顔を見て、何かを飲み込むように唇を結んだ。認識したのかもしれない——夜の世界にいる人間の顔を、と。あるいは単純に、美しすぎる何かに戸惑っただけかもしれない。どちらでもよかった。
「何があったの」とヒカルは聞かなかった。
代わりに、彼は着ていたジャケットを脱いだ。黒のセットアップ、仕立ては銀座で一番高い店、クリーニング代だけで五千円かかる。それを彼女の肩にかけた。少女が身をすくめたが、払いのけはしなかった。
雨の匂いと、彼のコロンの匂いが混ざった。
「あの」と少女が言った。
「スマホ持ってる?」
少女はわずかに眉を動かしてから、ジーンズのポケットからスマートフォンを出した。画面にひびが入っていた。ヒカルはそれを受け取り、LINEを開いてQRコードを表示させ、自分のスマホで読み取った。
連絡先が追加される。名前は「ヒカル」とだけ入力した。
「乾いたら返して」とジャケットのことを言った。
少女はまだ何かを言おうとしていたが、ヒカルはすでに立ち上がっていた。
「ここ、もうちょっとしたら警備員が巡回に来るから」と彼は言った。「中に入れてもらえる店を探すか、帰るか、どっちかにしな」
それだけ言って、彼は裏口のドアに手をかけた。
振り返らなかった。振り返ることに意味があるとは思えなかった——少なくとも、そのときは。
ドアが閉まる直前、背後でかすかな音がした。鼻をすする音だった。泣いているのか笑いをこらえているのか、判別できなかった。
ヒカルは階段を上りながら、自分が今何かをしたのかどうかをちょうど考えていた。いや、違う。考えてすらいなかった。ただ、胸の奥の何かが——いつもは完璧に静かな場所にある何かが——わずかに音を立てた気がした。
弦を弾いたような。あるいは古い傷が気圧の変化に反応したような。
そういう感覚だった。
七階に戻ると、矢崎が待っていた。
「大丈夫ですか? 濡れてますよ」
「ジャケット取ってきてくれ」とヒカルは言った。「替えの、どれでもいい」
「六条マダムから連絡が来てます。今週の金曜、個室の予約を入れたいと」
「わかった」
新しいジャケットを羽織りながら、ヒカルは鏡の前に立った。濡れた髪を指で整える。照明が彼の輪郭を切り取る。月光院の鏡は全員を美しく見せるように設計されているが、ヒカルだけは設計を超えていた——少なくとも、夜の世界ではそう信じられていた。
彼自身は、その美しさを何の担保にもしていなかった。
個室に戻り、シャンパンを注ぎ、笑った。完璧な笑顔だった。右隣の女がまた話し始めた。ヒカルは耳を傾けた。耳を傾けているように見えながら、実際には路地の暗さを反芻していた。
紫の髪。ひびの入ったスマホ。声を出さない泣き方。
あの少女がどこの誰なのか、彼はまだ知らなかった。名前も、年齢も、なぜ六本木の路地で一人でいたのかも。
けれども彼のLINEには一つ、新しい連絡先が追加されている。
アイコンは紫色の光の球だった。名前は登録されていなかった。
ヒカルはシャンパングラスを傾けた。泡が消える前に飲み干した。
店の外では、雨がまだ降り続けていた。