雨が斜めに降っていた。
軒下にて吾輩は丸くなっておった。正確に申せば、丸くなるという行為にはいささかの意志的努力が伴うものであるが、吾輩の場合は純粋に重力と倦怠との合作であって、努力の痕跡など微塵もない。それが吾輩の美学というものである。
千界湯の東棟の屋根から、吾輩は人間どもの世界を見下ろしている。これは比喩ではなく物理的事実であって、吾輩は確かに高いところにおり、人間どもは確かに低いところにいる。この自明の配置から出発して、何人かの人間はすでに哲学的啓示を得ているが、吾輩はそのような安直な悟りを好まない。高所は単に風通しが良く、人間に踏まれる危険が少ないというだけの話である。
さて、その夜のことを申し上げようと思う。
秋の終わりの嵐であった。この地においての嵐は、人間の世界のそれとはやや趣が異なる。風の方向に法則性がなく、雨粒の大きさが途中で変わり、雷が鳴るべき頃に妙な静寂が訪れる。千界湯にとって、嵐とは客を送り込む季節でもあった——迷子の、道を踏み外した、あるいは最初から来るべくして来た者たちを。
霧が出始めたのは戌の刻を過ぎた頃であったと思う。吾輩は時刻を正確に把握しているわけではないが、厨房から漂ってくる夜食の香りが絶えた後であったから、おそらくそのくらいであろう。硫黄と杉材と、どこか奥底から滲んでくる古い水の匂いが混じり合う空気の中に、霧は白い綿のように忍び込んできた。
霧のことは後ほど詳しく述べる機会があるかもしれぬ。とりあえず今は、霧が出たという事実だけを記しておこう。
吾輩が少女を最初に視認したのは、彼女がすでに千界湯の石畳の上に立っていた瞬間であった。
これは重要なことなので繰り返す。
吾輩が気づいた時、少女はすでに内側にいた。
境界というものがある。千界湯の門は人間の世界から見えないわけではないが、たいていの人間は見えていても通らない——というより、通れない。扉の向こうに何があるかを本能的に察知して、足が止まる。これは臆病とは違う。むしろ一種の健全な自己保存本能であって、吾輩はその点に関する限り、平均的人間の判断力をやや見直している。
だが時折、通ってしまう者がいる。
見えているから通るのではない。見えていないから通るのでもない。ただ——すでに何かを失っているか、あるいは失いかけていて、境界の内と外との差異に気づくだけの自己が十分に機能していない状態にあるのだ。
少女はまさにその典型であった。
十六歳前後であろう。身長は並であり、顔立ちは並であり、服装は濡れそぼって形を失っており、これといった特徴のない女子生徒用の上着を着ていた。靴は白かったと思われるが、今は泥と雨水で均一な灰色になっている。右の靴底が少し剥がれていて、歩くたびに石畳を叩くかすかな音を立てていた。パタ、パタ、という音である。
吾輩は一般に、感傷を好まない。この点についてはいくら強調しても強調し過ぎということはない。吾輩は感傷を好まない。だが、あの靴底の音については、何か申し上げることが難しい。靴底が剥がれた靴で嵐の夜に霧の中を歩いてきた少女というのは、いくら吾輩でも観察するに値する存在として分類せざるを得なかった。
少女は立ち止まり、濡れた前髪の隙間から千界湯の正面を見上げた。
千界湯は、夜は大変美しい。これは吾輩の個人的な見解であって、美的判断の客観性については別途議論の余地があるが、とにかく吾輩はそう思う。黄色い灯りが蒸気の向こうに滲み、古い木造の外壁に雨が縞模様を描き、どこかの浴室から聞こえてくる水の音が低くうねっている。硫黄の匂いは刺激的だが、この場所では不快ではない。それは地の奥から来る匂いであって、古さそのものの体臭とでも言うべきものだ。
少女はその美しさに気づいていない様子であった。
これが彼女の最初の特徴として吾輩の記録に加えられた点である。千界湯の正面を初めて見る人間は、大抵二通りの反応を示す。圧倒されて立ち尽くすか、恐怖して踵を返すかだ。この少女はいずれでもなく、ただぼんやりと見上げて、灯りが揺れているなあ、という程度の感想を顔に乗せていた。感情の薄さではない。感情がないわけでもない。むしろ——感情を処理する何らかの機能が今この瞬間に過負荷をかけられていて、外側へ出力することを一時停止しているような、そういう表情であった。
内側ではおそらく何かが動いている。だが外側は凪いでいる。
これは吾輩が最も注意を要すると判断する種類の静けさである。
少女は千界湯の暖簾を、こんな嵐の夜にも出ていた暖簾を、湯気の重みで半分折れた暖簾を、しばらく眺めてから、それをくぐった。
来てしまった。
吾輩は屋根の上で体勢を変えた。
これは吾輩が興味を持った時に行う動作であって、自分でもあまり認めたくないが、この少女は吾輩の興味を引いた。何が吾輩をそうさせたのか、今この文を記述しながら改めて分析すると——彼女の平凡さではないかと思う。
人間というものは、際立った不幸か際立った才能を持つ者がこういった場所に来ると思い込みがちだ。英雄的な悲劇か、もしくは特別な使命か。だがそれは人間の物語を好む性質に基づいた過剰な期待というものであって、吾輩の長年の観察によれば、最も深く問いを抱えて来る者は、際立った何かを持つ者ではなく——持っていると思っていたものが、実はそれほど自分のものではなかったと薄々感じ始めた者である。
この少女は、名前を持っていた。
吾輩は彼女の服の内ポケットに折りたたまれた学生証のようなものが入っていることを、その長方形の膨らみから類推した。水無月汐、と書いてあるであろうことを、吾輩は当然まだ知らなかった。ただ、彼女が名前を持っているということは、その名前を彼女がどれほど自分のものとして扱っているかは別として、疑いようのない事実であった。
名前を持っている。
だが、それを持っていることに気づいていない。
荷物の中に入っているきわめて重要な書類を、荷物が重いと感じたことがないために存在を忘れている人間と同じで——この少女にとって名前はそういうものであった。ずっとそこにあったから、そこにあることを一度も疑ったことがなかった。
吾輩はこの種の無自覚を責める気にはならない。吾輩自身が名前というものを持ったことがないから、その重さを正確に測ることができないのかもしれない。あるいは持ったことがないからこそ、その重さを客観的に見積もることができるのかもしれない。どちらが正確な認識であるかについては、まだ結論を保留している。
暖簾の向こうに少女が消えた後、吾輩は霧を見た。
霧は少女の後ろで、音もなく厚くなっていた。来た道を塗り潰すように、白く、ゆっくりと、確実に。
霧はこの場所の常連であって、吾輩は長くここに暮らしているから霧の機嫌のようなものがわかる気がする。今夜の霧は、行きを許すが帰りを保証しない種類の霧であった。
道を示す気はないが、道を見せびらかす気もない。ただそこにいる。
少女が来た方向を、霧は丁寧に、丹念に、白で覆っていった。
千界湯の中では湯の音がしていた。何百年もの間、たゆまず流れ続けてきた水の音が、嵐の夜にも変わらず厚い壁の向こうで鳴り続けていた。吾輩はその音を聞きながら、今夜は長い夜になりそうだと思った——吾輩は通常こういう予感を口にしないが、一人で思う分には構わないと考えている。
それは雨の匂いのする夜のことであった。
少女は千界湯の中に入り、霧は彼女の後ろで厚くなり、吾輩はそれをすべて屋根の上から見ていた。
以上が事の発端である。