草が鳴いていた。
北方の草原に秋が来ると、風は一枚の刃になる。霍淳はその刃の軌跡を眼で追いながら、右手に握った木剣を斜め下段に保ったまま、微動だにしなかった。十八歳の彼の体躯は草原育ちの少年らしく、節々が誇張されたような武骨さを持ちながら、どこか動物的な均整を宿していた。
「見ろ」と老鶴が言った。「見るな、見ろ」
老鶴の言葉はいつもそういう形をしていた。矛盾のように聞こえて、実際は矛盾ではない何かが、その隙間に息をしている。霍淳は師の言葉を問い直さなかった。彼は草を見た。
風が東から来ると、草原は波になる。一本一本の茎が個別の判断で揺れているのではなく、全体が一つの意志に従って傾ぐ。その傾ぎ方には始まりと終わりがあり、峰があり、底がある。霍淳は三年かけてようやく、草の動きを予測できるようになっていた。どこに風の芯があるか。どの瞬間に草が最も急峻な角度を取るか。そしてその一瞬の後、どのような静けさが訪れるか。
「剣は風だ」と老鶴はかつて言った。「草はお前の相手だ。相手は風に従う。だからお前も風にならなければならん」
老鶴は七十に近い年齢を、正確には誰も知らなかった。身の丈は霍淳より低く、骨張った体には常に古い藍染の衣が緩く纏わりついていて、まるで着ることを放棄しかけているような風情があった。かつて江南の武林で何某かの名を持っていたとも言われたが、本人は否定も肯定もせず、ただ草原を流れ歩き、時折このような奇妙な少年を拾っては剣を教え、また歩いた。
霍淳が老鶴と出会ったのは十五歳の時だった。細かい経緯は本人の記憶からも薄れているが、要するに霍淳は一人で草原を歩いていて、老鶴も一人で草原を歩いていて、どちらかが言葉を発し、どちらかが返事をした。それだけのことで始まった師弟関係は、しかし霍淳の剣の骨格を根本から組み替えた。
今日の稽古は夜明けから続いていた。霍淳の木剣が空を斬るたびに、老鶴は黙って首を振るか、あるいは何も言わなかった。何も言わないのは良い印ではなく、単に言葉を出すにも値しないという意味だと、霍淳は学習していた。
「腕が速すぎる」と老鶴がようやく言った。「草を見ろ。草はお前の腕より速く動くか」
霍淳は草を見た。草は遅かった。風の速さで動いているのに、その動き全体は驚くほど滑らかで、急いでいるように見えなかった。
彼は一度、息を吐いた。木剣を戻す。もう一度。
今度は老鶴が止まらなかった。
夕刻になると、二人は草原の端、枯れかけた柳の木の下に腰を落ち着けた。老鶴は腰の瓢箪から酒を飲み、霍淳は水を飲んだ。遠くに定住地の灯りが幾つか見えた。星が出始めていた。
「鶴師匠」と霍淳は言った。「南の武林というのは、本当にあるんですか」
老鶴は一瞬、酒を飲む動作を止めた。
「あるとも」
「俺は生まれてこのかた、草原しか知らない」
「知っている」
「師匠は南から来たんですか」
「来たとも来なかったとも」
霍淳はこの答え方にも慣れていた。ではこう聞こうと思い直した。「南には強い剣客がいますか」
老鶴は遠くを見た。その目に何が映っているかを霍淳には読めなかったが、老人が何かを思い出している時の独特の静けさがあった。
「強いものはいる。美しいものもいる。その二つが重なることは滅多にない」
「美しい、というのは」
「剣の動きが美しい、ということだ。見ていて息を呑む。忘れられない。お前がそれを見たら、お前はどうなるか」
「どうなる、とは」
老鶴は答えなかった。代わりに瓢箪を霍淳の方に差し出した。霍淳は受け取り、少し飲んだ。酒は草原の粗い粟酒で、喉を焼いた。
その夜は、そこで終わった。
翌日の昼過ぎ、街道に近い草原の一帯を歩いていると、南からの商隊が通りかかった。十数頭の馬と荷車の列で、護衛の武装した男たちが前後を固めていた。霍淳と老鶴は街道の脇に退き、隊列が過ぎるのを待った。
荷車の幾台かは幌を張られていたが、最後から二番目の荷車だけが違った。大きな漆塗りの板が何枚か、丁寧な梱包もされずにそのまま横に立て掛けられて運ばれていた。何かの装飾用の建材か、あるいは邸宅に向かう特注品か。霍淳はそれらに特別な注意を払わなかった。払おうとしなかった、という方が正確かもしれない。
しかし荷車が真横に来た時、その板の一枚が角度を変え、霍淳の視界にその表面を正面からさらした。
彼は足を止めた。
それは絵だった。漆の上に金粉と顔料を使って描かれた、建築物の絵だった。南方の様式らしく、複数の層を重ねた楼閣が、水辺に映る月光の中に立っていた。霍淳はそれまでに宮殿の絵も見たことがあったし、寺院の絵も知っていた。しかしこの楼閣はそれらと何かが根本的に違った。
何が違うのか、霍淳には言葉がなかった。
その楼閣は高かった。しかし高さではなかった。その楼閣は美しかった。しかし美しさでもなかった。霍淳がそれを見た瞬間に感じたのは、うまく言えば欠乏だった。欠乏の感覚が彼の胸を縦に割り、その割れ目から何か冷たいものが流れ込んでくるような、内側から抉られる感覚だった。
荷車は通り過ぎた。
霍淳は三歩ほど後を追いかけかけて、自分が動いていることに気づき、立ち止まった。
老鶴が横に来て、何も言わずにその荷車の背を見た。
「あれは何ですか」と霍淳は言った。声が少しかすれていた。
「天剣楼だな」老鶴は言った。「南の、江南に建つ楼閣だ。武林の聖域と呼ばれている」
「聖域」
「そこに踏み込んだことのある者なら、誰でも一生忘れない。踏み込んだことのない者でさえ、そこに憧れる。それが天剣楼というものだ」
霍淳はまだ荷車が消えていった方向を見ていた。街道の先、草原が緩やかに起伏する向こうに、商隊の立てた土ぼこりがまだ漂っていた。
「会いたい」と彼は言った。
それはほとんど声にならない言葉だったが、老鶴には聞こえた。老人は何も言わなかった。ただ空を仰ぎ、それから歩き始めた。霍淳もついて行ったが、その歩調は少し変わっていた。本人には気づけなかったが、足が南を向こうとする奇妙な引力を帯びていた。
その夜、霍淳は夢を見た。
夢の中で彼は、どこかの平原に立っていた。夜だった。空には月がなく、星もなかったが、遠くに光があった。近づくにつれて光は建物の形を取り、やがてそれが楼閣だとわかった。漆塗りの板に描かれたあの楼閣と同じだったが、夢の中のそれははるかに大きく、夜の闇に対して彫刻のような立体感を持って聳えていた。
霍淳は近づいた。入口に来た。中に入ろうとした。
その時、楼閣が傾いた。
傾くというより、それは彼の方に倒れてきた。あるいは彼が楼閣の中に吸い込まれていった。どちらでもあった。建物の重量が彼の体の上に覆い被さり、それは圧迫ではなく、溺れるような感覚だった。美しいまま。欠乏のまま。割れたまま。
彼は目が覚めても、しばらく天幕の布を見つめていた。胸の中の割れ目がまだ残っていた。夢の中で感じたことは消えていなかった。むしろ目覚めた後の方が、それは鮮明だった。
老鶴はすでに起きていて、外で何かを煮ていた。
霍淳は立ち上がり、天幕の外に出た。空は白み始めていた。草原に夜明けの風が走り、草が一斉に東へ傾いた。彼はその動きを見たが、今朝は草の運動を分析しようとは思わなかった。ただその光景全体が、昨晩の夢の残滓と混ざり合い、どこか遠くて切実な感じを帯びていた。
三日後、街道に一人の旅人が倒れているのを霍淳が見つけた。
老人の旅人だった。荷物も何も持っておらず、街道の端に転がるように倒れていた。まだ息があった。霍淳は躊躇わず近寄り、老人の体を起こし、水を飲ませた。老鶴はやや離れた位置に立って、関わり合いになることを避ける気配もなく、ただ見ていた。
旅人は水を飲みながら、ひどく震えていた。体の半分はすでに死に向かっていた。霍淳にはそれが感じ取れた。草原では死は遠くなかった。
「どこからいらっしゃいましたか」と霍淳は聞いた。
旅人は彼を見た。目の焦点が定まっていなかった。唇が動いた。
「…霍天嘯」
霍淳には聞き取りにくかったが、その言葉だけが声になっていた。他の言葉はすべて息になり、この名前だけが音の形で出てきた。
「何とおっしゃいましたか」
旅人の口がもう一度動いた。今度は声にならなかった。
しばらくして、旅人は静かに死んだ。霍淳は閉じていない目を手で覆い、それから立ち上がり、老鶴を振り返った。
「霍天嘯、と言いましたか」
老鶴は動かなかった。その表情はいつもと変わらなかった。変わらなさの中に、かすかな強張りがあった。
「聞こえたか」と老鶴は言った。
「俺の名前と同じ字が入っています」
「そうだな」
「それは誰ですか」
老鶴は長い時間をかけて老人の旅人を見た。それから空を見た。草原の向こうには雲が湧いており、午後には雨になるかもしれなかった。
「南に行けばわかる」と老鶴はようやく言った。「お前が南に行く気になった時に、必ずわかる」
「俺が南に行く気になるとは限らない」
「なる」
老鶴の確信は、議論を寄せ付けない性質のものだった。霍淳は返事をしなかった。二人は街道の端に小さな石を積んで旅人の目印とし、また歩き始めた。
その後も霍淳は草原で剣を学んだ。草の揺れを見た。風の角度を肌で読んだ。老鶴の断片的な教えを体の中に蓄積した。しかし夜になると胸の中の割れ目が戻ってきた。漆の板に描かれた楼閣が、夢の縁に立って彼を待っていた。
霍天嘯という名前も残った。旅人の最後の言葉として残った。その名前が何を意味するか、霍淳はまだ知らなかった。しかしそれが自分に向けられた言葉だったことは、根拠なく確信していた。
秋の草原に夕風が立ち、草が一斉に傾いた。西から来た風だった。霍淳は剣を抜き、その風の動きを追って一閃した。刃先が空気を断ち切り、余韻の中に短い音が生まれ、消えた。
老鶴は見ていた。今日は何も言わなかった。
それが一番良い返事だと、霍淳はわかっていた。