波が、彼を吐き出した。
岩だらけの海岸に、一人の青年がうつ伏せに横たわっていた。嵐の名残が白い泡となって足元を洗い、引いては返し、返しては引く。夜の終わりの空は濁った鉛色で、沖には雷雲の腹がまだ紫色に光っていた。
青年は動かなかった。
やがて波が耳に入り込んだのか、それとも鼻腔を刺す潮の匂いが意識を呼び戻したのか、彼は不意にぶるりと身を震わせ、砂と小石に塗れた顔を持ち上げた。つぶった瞼の裏が白く滲んだ。一度、二度と瞬きをして、彼はゆっくりと体を起こした。
「……うわ、岩だらけだな」
第一声がそれだった。独り言にしては随分と呑気な声で、荒涼とした海岸の風景に対してほとんど感心しているような響きがあった。
青年は立ち上がった。背丈は並で、体つきは細いが、どこか弾力のある軽さで、ゴムのように四肢がしなる。黒い短髪は海水でへばりつき、ぼろぼろの半袖に短ズボン、素足。持ち物は何もなかった。名前を呼ぶ者も、待つ者も、来た場所も——何一つ。ただ彼は、そのことをさほど気にしていないように見えた。
「腹が減った」
彼は手の甲で額の砂を拭い、それから正面を向いた。
崖の上に、都市があった。
夜明けの薄明の中、その輪郭は重く濃く、海から直接生えたかのように石積みの城壁が空へ向かって垂直に立ち上がっていた。壁には苔と塩が染み込んでいて、長い年月と孤立の気配を帯びていた。城壁の向こうに家々の屋根が積み重なり、高台の奥に宮殿の塔が突き刺さるように天を向いている。都市全体が、夜明けの光の中でもどこか暗く沈んでいた。
青年は崖を見上げた。それから崖の手前に続く岩場を右手に辿り、城門へ通じる獣道のような細い坂道を見つけた。
「あそこから入れるな」
彼は歩き始めた。素足で岩を踏み、転がった石を踏んでも転ばず、朝の風の中を体を揺らしながら坂を登っていった。腹が鳴った。もう一度鳴った。彼はそれを全く気にしなかった。
城門は薄く開いていた。
夜明けと同時に市場へ向かう荷車のためか、門番が一人あくびをしながら木の戸を押している最中だった。青年はそこをひょいとすり抜けた。門番が振り向いた時にはもうその背中だけが見えていて、門番は首を傾げたが、それ以上何もしなかった。
都市の名はディオスタラという。
石畳の道が網の目のように走り、白い漆喰と黒い石組みの建物が肩を寄せ合って立ち並んでいた。中央広場へ向かう大通りには朝の市が立ちはじめていて、魚売りの台、香草の籠、陶器の壺、乾燥した豆の袋——それらが整然と並んではいたが、売り手も買い手もひどく無口だった。
青年は目を細めた。
市場というものの記憶が彼にあるのかどうか、それ自体が定かではなかった。しかし体が知っていた。市場とはもっと音のするものだと。声があり、笑いがあり、値段を巡る怒声と冗談が混じり合って一つの騒音になるものだと。
ここにはそれがなかった。
人々は動いていた。取引もしていた。荷物を運ぶ者、天秤を持つ者、子供の手を引く母親。しかし誰もが目を伏せていた。肩が内向きに落ち、背中が縮こまっていた。声は低く、短く、必要最小限だった。誰かの視線が合いそうになると、相手はすっと目を逸らした。まるで視線を交わすこと自体が何か危険なことであるかのように。
青年は立ち止まって、ゆっくりと辺りを見渡した。
広場の一角に衛兵が三人いた。鉄の鎧を着け、槍を持ち、市場の人々を見回していた。その目つきは退屈と傲慢が混ざったもので、一人が通りかかった老人の荷物の縁を槍の石突きで引っかき、わざと路上に落とした。老人は身をすくめ、誰の助けも求めずに黙って拾った。衛兵たちはそれを見て何か囁き合い、小さく笑った。
青年の目がすっと細くなった。
彼は老人の方を見た。しゃがんで散らばった陶器の欠片を集める背中は、怒りではなく諦めで作られていた。その諦めの深さと静けさが、怒りよりずっと重く、ずっと長い時間をかけて積み上げられたものだということを、青年は理屈でなく肌で感じた。
「なんだここ」
彼は言った。誰に向かってというわけでもなく、ただ口から出た。
声はさほど大きくなかったが、あまりに直截で、あまりに当然という響きを持っていたため、近くにいた二、三人の市民が反射的にそちらを向いた。青年の顔には困惑があった。怒りもあったが、それより先に純粋な疑問が来ていた。意味が分からない、という顔だった。
なぜこんなに静かなのか。なぜ誰も怒らないのか。なぜ老人を助けに行く者が一人もいないのか。
衛兵の一人がこちらを向いた。
「おい、よそ者」
低い声だった。青年はそちらを向いた。
「うるさい。ここは静かにしろ」
衛兵は槍の石突きを石畳に打ち付けた。乾いた音が広場に響いた。周囲の市民がその音に反応するように、一斉にわずかだが体を縮ませた。染み込んだ反射だった。何百回、何千回と繰り返されてきた音と、それに続く何かへの恐怖が、人々の骨に刻まれていた。
青年はきょとんとした顔で衛兵を見た。それからもう一度、市場全体を見渡した。
俯いた顔、顔、顔。縮んだ背中、背中、背中。物音一つ立てまいとする息をひそめた群衆。
彼の中で何かが、音を立てた。
「なんかおかしいだろ、ここ」
今度はさっきより少し声が大きかった。
衛兵が眉をひそめた。老人が拾いかけた陶器の欠片を持ったまま、顔を上げてこちらを見た。近くにいた女が子供の頭を咄嗟に自分の胸に押しつけた。
青年は衛兵を見ていなかった。市場全体を、人々の背中を、伏せられた目を見ていた。腕を組むでもなく、手を拳に握るでもなく、ただ真っ直ぐに立って、眉の間に深い皺を寄せていた。
「みんなが怖がってる。なんでだ」
返事はなかった。
当然だった。
この都市では、問いを口にすること自体が既に一つの危険だった。ディオスタラの民は長い時間をかけてそれを学んでいた。声を出すな。目を合わせるな。問うな。そうすれば、今日をやり過ごせる。明日をやり過ごせる。それ以上を望むな。
青年は風の中に立っていた。
潮の匂いがまだ彼の体から漂っていた。素足の裏に石畳の冷たさがあった。空は夜明けの橙からゆっくりと白んでいき、都市の石造りの建物がその光を受けて鈍く輝いていた。美しい都市だった。しかし美しさの全体に、何か重たいものが被さっていた。押しつけられた沈黙の、長年の積み重ねが。
衛兵が一歩踏み出した。
「黙れと言っている。次に余計なことを言ったら——」
「腹が減った」
青年が言った。
衛兵が止まった。
「なんか食わせてくれる所ないか。魚でも何でもいい。あと、ここの偉い人に話があるんだが、どこに行けばいい」
衛兵は絶句した。
市場に、奇妙な一瞬の静止が訪れた。怯えでも驚愕でもなく、何か長い間忘れていたものを突然目の前に差し出されたような、困惑した静けさだった。幾人かの目が、青年の顔をそっと盗み見た。
その顔には恐れがなかった。
ただそれだけのことが、ディオスタラの朝の市場に、まるで嵐の落とした種のように、静かに落ちた。