Chapter 1: The Notebook on the Rooftop

雨が降っていた。

水曜日の夜、十一時を回った頃、鏑木誠は六本の段ボール箱が朽ちた廃ビルの階段をひとつずつ踏みしめながら、「制度的正義の機能不全と社会的不平等の再生産」というテーマのゼミで言い損ねた言葉のことを考えていた。

言い損ねた、というより、言わなかった。

「で、結局のところ、法というシステムは何を守っているんですか」と発言するつもりで、口を開きかけて、やめた。指導教員の田島教授が「それは感情論になりますよ、鏑木くん」と言う顔が浮かんだからだ。田島教授はいつもその顔をした。感情的な問いに対して。個人的な憤りに対して。制度の外側から投げられる石に対して。

感情論。

鏑木は四階の踊り場で立ち止まり、濡れたスニーカーの底を確かめるように足踏みをした。廃ビルはかつて小さな印刷会社だったらしく、壁のあちこちにインクの染みが残っていた。いつからここに来るようになったのか、自分でもよく覚えていない。修士課程の一年目か、それとも博士に進んでからか。夜の大学院棟が息苦しくなるたび、気がつくとここにいた。

屋上へ続く鉄扉は、いつも通り鍵が半壊していて、肩で押すだけで開いた。

外の空気は水ごと飲み込めそうなほど濃かった。

屋上に出た瞬間、雨が顔を叩いた。傘は持っていなかった。持ってくる気にならなかった、というのが正確で、ずぶ濡れになることに何か軽い懲罰的な快感を覚えている自分がいることも、社会学を専攻している身としてはきちんと自覚していた。自罰行動の一形態。フラストレーションの身体化。田島教授なら「それも感情論ですね」と言うだろう。

屋上には給水塔の残骸と錆びたフェンスと、誰かが置き去りにした折りたたみ椅子があった。鏑木は椅子に近づかず、給水塔の陰に立って雨に打たれながら、夜の街を見下ろした。

東京の夜は雨の中でも明るい。コンビニの光、信号の光、タクシーの光。何万という人間がそれぞれの事情を抱えてそれぞれの場所へ向かっている。その中の何人かは今夜、誰かに傷つけられている。その中の何人かは法の網をくぐり抜けて、今夜も安全に眠っている。

博士論文の第三章は「被害者の制度的疎外と応報感情の社会的機能」というタイトルで、鏑木はこの三ヶ月間、被害者へのインタビューを百二十件読み込んでいた。百二十件の傷と、百二十件の怒りと、百二十件の「なぜ誰も何もしてくれなかったのか」という問い。

自分の母親の話は、もちろんどこにも書いていなかった。

給水タンクの陰で何かが光ったのは、そのときだった。

正確には、光ったわけではない。ただ、雨の中で特定の濡れ方をしているものがあった。金属でも布でもない、紙が濡れるときの独特の重さ、暗闇の中でも判別できるくらいには。

鏑木は反射的にしゃがみ込んで、タンクの土台と床面のわずかな隙間から、それを引き抜いた。

薄い冊子だった。B6判ほどのサイズで、表紙は黒。雨に濡れているのに、不思議なことにページは湿っていなかった。防水加工でも施してあるのだろうか、と思いながら表紙を向けると、三文字が読めた。

裁定録。

筆で書いたような文字だった。印刷ではない。インクの滲みや筆圧の凹凸まで、ページに残っていた。

鏑木は裏返し、中を開いた。

最初の見開きには、罫線が引かれていた。そして右上のページの端に、非常に小さな字で注意書きのようなものが書かれていた。鏑木は雨水で滲む目を細め、街の光を頼りにそれを読もうとした。

「それ、濡らすと読めなくなりますよ」

声がした。

振り返ると、そこに男が立っていた。

年齢がよくわからなかった。二十代前半とも、あるいは外見だけ若く見える三十代とも取れる顔立ちで、コンビニの袋を二枚合わせて肩から被ったらしき即席のポンチョを装着していた。頭の部分だけ穴を開けてある。それなりに手慣れた様子だったので、初めてやったわけではないのだろう。

「……誰ですか」

「烏丸といいます」と男は答えた。静かな声だった。雨音にほとんど吸い込まれてしまうくらい穏やかな声で、「そのノート、僕のです」と続けた。

「落としたんですか」

「置いていった、に近いかもしれません」

「違いが分からない」

「拾得と遺棄の境界線を議論するなら、もう少し乾いた場所でやりたいですね」と烏丸は言い、今更のようにコンビニ袋のポンチョの端をつまんで持ち上げた。「あなたは傘を持ってきていない。信念ですか、それとも忘れただけですか」

鏑木は答えなかった。代わりに、ノートを少しだけ持ち上げ、「これ、あなたのものなら返しますが」と言った。

烏丸は少し考えるような間を置いた。本当に考えているのか、それとも考えるふりをしているのか、どちらとも判断できない種類の沈黙だった。

「まあ、急いでいないので」

「急いでいない」

「はい」

「廃ビルの屋上で、深夜に、ノートを落とした人間が、急いでいない」

「そういうこともあります」と烏丸は言い、鏑木の顔を見た。雨が止む気配はまったくなかったが、烏丸は濡れることをまったく気にしていないようだった。コンビニ袋のポンチョについて言うと、防水の実用性というより、もはや意匠的な選択に見えた。「あなたは社会学を研究しているそうですね」

「なぜそれを」

「今夜のゼミで発言しなかった、ということは、言いたかったことがあったということで、言いたいことがある人間の顔というのは、言い終わった人間の顔とはまったく違う。それと、肩のカバンに論文の端が覗いています。文字が横向きになっているので読めませんが、院生のカバンには大体そういうものが入っている」

鏑木は自分のカバンの口を閉じた。確かに、田島教授が配ったレジュメが半分はみ出していた。

「探偵ですか」

「記録者です」と烏丸は答えた。

「記録者」

「ええ」

意味がよくわからなかったが、この男がそれ以上説明するつもりのない表情をしているのはわかったので、鏑木はもう一度ノートを見下ろした。裁定録。黒い表紙。濡れているのに乾いているページ。

「中身は読みましたか」と烏丸が聞いた。

「今読もうとしていたところです」

「時間はありますよ。急いでいませんから」

烏丸は屋上のフェンスに背を向けてもたれ、夜景を見るとも見ないとも言えない角度で立った。その立ち方は、ここに来て初めてではない人間の立ち方だった。

鏑木は、この男が学生街の変わり者だという結論に近づきながら、それでもなぜかノートをカバンにしまった。中身を後で読む気があるというより、雨の中でページを開くのが惜しいような気がした。濡らすと読めなくなる、と言っていた。

「返しに来ます」と鏑木は言った。

「どこに来ますか」

「……連絡先は」

「まあ、会いたいと思ったときに会えます」と烏丸は言い、それが会話の終わりを意味する種類の口調だったので、鏑木はそれ以上聞かなかった。

階段を降りながら、鏑木は自分がなぜ素直にノートを置いてきなかったのかを考えた。社会学的に分析すれば、非日常的な出来事に際して人間が示す把持衝動、所有本能の一形態、あるいは単純な好奇心。田島教授なら「感情論ですね」と言うだろうか、それとも今回はもう少し優しい顔をするだろうか。

外に出ると、雨はまだ降っていた。

カバンの中で、裁定録は乾いたままだった。

——————

〔記録:十五年前・第一回公判準備期日〕

〔東京地方裁判所・第三号法廷〕

〔速記録・抜粋〕

裁判長 それでは弁護人、ご意見は。

弁護人(轟文彦) はい。弁護人としては、本件における「事故の連続性」という検察側の主張について、その前提となる因果関係の認定に重大な瑕疵があると考えております。四件の事案を「異常な一致」と呼ぶためには、まず各事案が独立して異常であることの立証が必要です。現時点では、それが十分になされていない。

裁判長 具体的には。

弁護人(轟文彦) 具体的には、第二事案と第三事案の間に、弁護側が独自に収集した気象記録と現場状況の記録があります。その精査に、もう少し時間が必要です。

裁判長 続行を求めるということですか。

弁護人(轟文彦) はい。二週間ほど、いただけますか。

〔沈黙・四秒〕

弁護人(轟文彦) なお、申し添えておきますが、本件で問われているのは被告人の行為ではなく、自然が選んだ順序の問題です。裁判所が判断を下す前に、その順序をきちんと整理したい。ただそれだけのことです。

裁判長 ……続行を認めます。次回期日は——

〔以下、次ページに続く〕

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Chapter 1: The Notebook on the Rooftop — 神様のメモ帳、悪魔の走り書き | GenNovel