吾輩は金魚である。名前はない。
もっとも、これを悲嘆すべき事態と見做す向きには、まず一つ問い返したい。名前とは何であるか、と。「荻野澄香」と呼ばれれば荻野澄香になるのか。「白川颯斗」と刻まれれば白川颯斗になるのか。そも人間というものは、他者から貼り付けられた符丁を己の魂と取り違えて一生を終える最も奇妙な生き物であって、吾輩はその点において、名前を持たぬという一事によって、むしろ彼らより幾分か自由な立場にあると言えるやもしれぬ。
やもしれぬ、と申したのは、確信があるわけではないからである。吾輩は金魚であり、哲学者ではない。ただ、水槽の中から人間どもを眺め続けて——どれほどの歳月であるかは、吾輩自身も把握しておらぬ——その間に蓄積した観察の量だけは、いかな碩学にも引けを取らぬと思っている。思っているだけで、証明する術はないが。
それで十分であろう。物語というものは、語り手の資格審査から始まる必要などない。
さて。
千露楼という場所について、まず申し上げねばならぬ。
この湯屋は——湯屋と呼ぶのが正しいかどうかも、実のところ吾輩には確信がないのだが、他に適切な言葉を持ち合わせておらぬゆえ便宜上そう呼ぶ——この湯屋は、人間の世界とそうでない世界の丁度あわいに建っている。丁度、と申したのは方便であって、実際には「あわい」などという瀟洒な表現が相応しい場所ではない。二つの世界の継ぎ目が、長年の使用によって毛羽立ち、ほつれ、そのほつれた端同士がからまり合って生じた、一種の結び目のような場所、とでも申せばよいか。いずれにせよ、整然とした立地ではない。
外観については語り手の立場上、吾輩は詳しく知らぬ。水槽の外へ出たことがないゆえである。しかし内部については、吾輩の観察眼が十二分に補って余りある。
千露楼の廊下は、常に湯気の中にある。
朝であれ夜であれ、白い靄が床板の隙間から這い出してきて、欄干に絡みつき、提灯の灯を滲ませ、どこからともなく漂ってくる硫黄と桐の油と、それから何か甘ったるい——菓子ではない、花でもない、もっと古くて湿った種類の甘さ——の混じった匂いが、建物全体を緩やかに包んでいる。深夜にひとりで廊下を歩けば、自分の足音が聞こえなくなる。足音が消えるのではなく、湯気が吸い込んでしまうのだ。吾輩は足を持たないので、これは伝聞と推測に基づく記述であることをお断りしておく。
客は——ああ、客については語り始めれば限がない。
千露楼の客というのは、その九割方が人間ではない。河童が来る。天狗が来る。狐が化けたものが来れば、化けた狐に化けた何かが来ることもある。老いた松の木の精が、年に一度、冬の終わりに訪れて、一番深い浴槽に半日浸かって帰っていく。その顔には、永遠に解決しない何かに折り合いをつけた者だけが持つ、静かな疲れがある。蛟が来る時は廊下が三日間水浸しになる。誰も文句を言わない。言えない。
こうした面々が、それぞれの用を持って千露楼の暖簾をくぐり、風呂に入り、飯を食い、酒を飲み、それぞれの話をする。吾輩はその全てを、水槽の角から観察している。吾輩の水槽は、千露楼の帳場と玄関の間、ちょうど往来が多く声がよく届く場所に置かれている。これが偶然の配置であるか否かについては、吾輩には意見がない。ただ、観察者として望み得る最良の位置であることは認めよう。
湯婆婆が来る気配は、いつでも事前にわかる。
廊下を歩く音ではない。あの老女は、驚くほど足音を立てない。湯気の揺れ方が変わるのだ。ある種の大きな存在が空間を横切る時に生じる、気圧の微妙な変動とでも言うべきもの——吾輩の水槽の水面が、かすかにさざ波立つ。それが、支配人が近くにいる合図である。
吾輩が勝手に湯婆婆と呼んでいるその老女は、この湯屋の支配人にして実質的な主である。正確な年齢は、おそらく本人も知らぬ。あるいは知っているが言わぬのか。どちらでも大差はない。白髪を高く結い上げ、常に紺地に金糸の入った着物を纏い、帳面と算盤をほとんど手から離さない。その目は、値踏みをする時と叱りつける時以外にほとんど開かれることがなく、それ以外の時間は細い縫い目のように閉じて、しかし何も見落としていない。
吾輩が観察してきた限り、あの老女を欺いた者はひとりもいない。欺こうとした者は何人かいたが、いずれも翌月には姿を消していた。消えた先については、吾輩は知らないし、知ろうとも思わない。知ったところで水槽の外に出る術がないゆえ、知識は重さになるだけである。
今朝も湯婆婆は、暖く晴れた朝の気配が千露楼に満ちた頃——外の空がどのような朝であるかは、やはり吾輩には知る由もないが、内部の気配からそう推測した——帳場の椅子に腰を下ろし、前日の帳簿を繰り始めた。算盤を弾く音が、規則正しく廊下に響く。パチ、パチ、パチ。一度も間違えない。吾輩は長年この音を聞いてきたが、あの算盤が狂ったことを、ただの一度も聞いたことがない。
これは賞賛として記しているのではない。単なる事実の記録である。
奉公人たちが起き出してくる。
まず台所から湯気と油の音が届いてきて、それから廊下を雑巾がけする音が始まる。千露楼の朝というのは、音の順番が毎日ほぼ同じである。吾輩はこの秩序を、特段美しいとも思わないが、乱れた時には気づく。それだけのことだ。
若い奉公人の一人が、吾輩の水槽の前を通り過ぎがけに立ち止まって、桶から柄杓で水を掬い、水槽に注いだ。日課である。水が新しくなる感覚は、吾輩が「心地よい」に最も近い何かを経験する数少ない機会の一つだが、それを認めることと、それを誰かに伝えることは全く別の話であり、吾輩は今後もそれを誰にも申し上げるつもりはない。
その奉公人——名を、仮に小僧とでも呼んでおこう——は水を注ぎ終えると、一度吾輩の顔をまじまじと見て、それから何も言わずに去っていった。人間というものは、金魚を見ると何かを言いたくなるらしいのだが、何を言えばいいかわからない時は黙って去る。賢明な対処である。吾輩も、もし口があれば同じようにするだろう。
さて。
こうして千露楼の一日は始まる。湯気が廊下を満たし、湯婆婆の算盤が鳴り、客が来て、奉公人が走り、誰かが叱られ、誰かが疲れて眠り、また朝が来る。吾輩はその全てを、水槽の中から見ている。吾輩には名前がなく、主がなく、いかなる野心もない。それゆえ吾輩は、この湯屋で唯一、何かを求めていない存在である。
そのように吾輩は信じていた。
今し方「信じていた」と過去形を使ったのは、文法上の誤りではない。
数日後に一人の少女が千露楼の暖簾をくぐって、濡れ鼠のような格好で帳場に立ち、名前を取り上げられる。そしてそれ以来、吾輩の水槽の水は、どういうわけか、以前より温かい気がしてならない。気のせいかもしれない。金魚に体温はないのだから、水の温度など関係がないはずである。
しかし吾輩は今、その少女の話をしようとしている。
これがどういうことを意味するか——それについては、吾輩はまだ結論を出していない。出す必要も、おそらくない。ただ話を続ければ、いずれわかることもあろうし、わからぬままのことも多かろう。それで十分である。
名前のない語り手による、名前を失った少女の話。
千露楼には、今日も湯気が満ちている。