Chapter 1: The Return Box at Closing Time

返却ボックスは図書館の玄関脇、自動ドアのすぐ右手にあった。

薄汚れた金属製の投入口は、長年にわたって無数の本を飲み込んできたせいか、縁のところどころが鈍く光を失っていた。千葉悠人はそこに腰を下ろし、膝の上に開いたままのレポート用紙を眺めながら、自分が今夜で三度目の同じ段落を読んでいることに気づいた。

午後七時四十分。ゼミ開始まであと八十分。

「制度的消去と社会的不可視性——官僚システムにおける周縁化のメカニズム」という論文タイトルは、書いた本人が読んでも眠くなった。悠人はため息をついて紙を折り畳み、ジャケットの内ポケットに押し込んだ。

図書館の前には夕暮れが漂っていた。正確に言えば、夕暮れというより「夕暮れが終わった後の残滓」で、空はすでに紫から灰色への移行を終え、街灯だけが淡く点り始めていた。十一月の空気は薄く冷たく、吐く息がかすかに白んだ。どこかのサークルの練習か、遠くから聞こえてくる太鼓の音が、一定のリズムで夜気を震わせていた。

悠人は立ち上がり、自動販売機へ向かった。

キャンパスの隅、銀杏の木の根元に押しつけられるように設置された自販機は、商品名が日焼けして半分読めなくなっていたが、悠人はどうせいつも同じものを買うので問題なかった。百十円のブラック缶コーヒー。温かい。これだけが今夜の自分への報酬だった。

コインを入れ、ボタンを押す。缶が落ちる音。

取り出した缶を両手で包みながら、悠人は来た道を戻った。図書館の玄関脇を通り過ぎかけて、ふと足を止めた。

返却ボックスの投入口から、何かがはみ出していた。

本にしては薄すぎる。それでいて、ただの紙切れにしては厚みがある。悠人は首を傾け、投入口の縁に引っかかっているそれを摘んで引き抜いた。

ノートだった。

A5判、紺色の表紙。ブランドも出版社のロゴもなく、ただ白い紙が貼られ、そこに細い筆跡で七文字が書かれていた。

「神様のリスト」

悠人は三秒ほどそれを眺め、それから周囲を見回した。返却ボックスの前には誰もいない。自動ドアの向こうでは司書らしき人物がカウンターの向こうで何かを入力していたが、こちらには気づいていない。

落とし物だろう、と思った。図書館に届けるべきかとも思ったが、ボックスの投入口に引っかかっていたということは、誰かが意図的にここに入れようとして――あるいは入れる途中で止まって――そのまま行ってしまったということかもしれなかった。

とりあえず、中を確認してから判断しよう。

悠人は缶コーヒーを一口飲んで、ノートを開いた。

最初のページには、横罫線の上に丁寧な字でこう書かれていた。

「このノートの使い方について」

悠人の眉が少し上がった。

「一、名前と顔を同時に思い浮かべながら、このノートにその人物の名前を書くこと。二、名前を書いた後、七十二時間以内に対象者は社会的な意味において存在しなくなる。死亡するのではなく、記憶、記録、すべての痕跡が消滅する。三、消去は七十二時間の窓内においてのみ取り消し可能であるが、その方法はここには記さない。四、書いた者は対象者が消去される過程において、いかなる影響も受けない。ただし例外がある」

悠人はそこで一度顔を上げた。

例外がある、と書いてあるのに、例外の内容が続いていなかった。

ページをめくると、白紙だった。その次も白紙。さらにめくると、中ほどのページに一行だけ、別の筆跡で何かが書き足されていた。後でゆっくり読もう、と思い直して、悠人はノートをパタリと閉じた。

「神様のリスト」。

なかなか手の込んだジョークだ、と彼は思った。あるいは演劇サークルの小道具か、文芸系の創作物か。大学の図書館には奇妙なものが流れ着く。先月は誰かが「絶対に読むな」と表紙に書いた本を棚に差し込んでいて、それが後輩の卒論テーマになりかけたという話を聞いた。

缶コーヒーを飲み干し、空き缶をゴミ箱に投げ入れながら、悠人は少し考えた。

届けたほうがいいだろうか。

でも、誰が持ち主か分からないし、そもそも「神様のリスト」などというタイトルのノートを図書館カウンターに持っていくのは、なんとなく気まずかった。司書の女性が困った顔をする様子が目に浮かんだ。

結局、ジャケットのポケットに滑り込ませた。

後で読む。それだけだ。

図書館の中に戻ると、すでに夜の空気が建物全体に染み込み始めていた。冷房と暖房の切り替え期、この季節特有の「微妙に寒いが誰も暖房を入れない」状態で、天井の蛍光灯だけが白々と空間を照らしていた。

悠人は三階の閲覧室に陣を構え、先ほど諦めた論文に再び向き合った。

隣のテーブルでは、大きなヘッドフォンをつけた男子学生が、ノートパソコンのキーボードを必死に叩いていた。画面は半分見えたが、レポートではなく就活用のエントリーシートらしかった。「私の強みは粘り強さです」という文字が目に入って、悠人は反射的に目を逸らした。

窓際の席では女子学生が二人、社会学概論の教科書を広げながらこそこそと話をしていた。片方がしきりに髪を触っており、もう片方は終始眠そうな顔をしていた。

二列前の席では、白髪混じりの中年男性が学術誌を読んでいた。読書用の老眼鏡をかけ、ページの端を几帳面に折らずに代わりに付箋を貼っていた。院生か、教員か、あるいは単に勉強が好きな社会人か。悠人には判断できなかった。

自分もきっと他人からは「図書館にいる地味な男」としか認識されないだろう、と思った。ゼミの先輩に「千葉くんって発言少ないよね」と言われたのは半年前だが、今でもたまに思い出す。少ないのではなく、誰も聞いていないと思うと声が出にくいのだ、と説明したことがあったが、先輩は「それが問題だよ」と笑った。

論文の段落を、四度目も最後まで読めないまま、悠人はポケットのノートに手を伸ばした。

もう一度、読んでみる気になった。

「このノートの使い方について」

一回目より注意深く読む。文章は流暢で、句読点の打ち方も正確だった。素人が気まぐれで書いたものではなく、何らかの意図を持って、ある程度の時間をかけて書かれたものだとわかった。三ページ目に、さらにいくつかのルールが続いていた。

「五、書かれた名前に対応する人物が複数存在する場合、消去は発動しない。六、書いた者本人の名前を書くことはできない。七、」

七番目のルールは途中で切れていた。インクが薄れているのではなく、文章自体が終わっていなかった。まるで書いた者が途中でやめたか、あるいは何らかの理由で続きを書けなくなったかのように。

悠人はページを前後にめくって、続きを探した。

そこで気づいた。ノートの最後のページに、鉛筆で薄く書かれた一行がある。

「七十二時間以内に、でも一人で抱えないこと」

筆跡が違う。さっきの丁寧な字とも、中ほどのページの書き込みとも違う。第三の手。

悠人はノートを閉じて、しばらく表紙を見つめた。

「神様のリスト」。

ジョークにしては、少し真剣すぎる気がした。

時計を確認すると、ゼミまであと四十五分だった。彼はノートを再びポケットに入れ、冷えかけた閲覧室の椅子の上で伸びをした。

窓の外、キャンパスに面した通りを、自転車のライトが一つ流れていった。

ゼミは予想通り退屈だった。

指導教員の村田教授は今夜も各自の進捗を淡々と確認し、コメントは的確だが短く、質問は歓迎するが驚かないという態度を崩さなかった。悠人の「制度的消去と社会的不可視性」研究については、「方向性は面白い、でも事例が弱い」という評価を三ヶ月連続でもらっていた。

今夜も同じコメントだった。

帰り道、キャンパスを出て住宅街に続く坂道を歩きながら、悠人はコートの襟を立てた。十一月の夜は容赦なく、耳の先から熱を奪っていった。自転車を持っていないので毎晩二十分歩く。その二十分の間、だいたい何も考えないか、あるいは考えすぎるかのどちらかだった。

今夜は考えすぎる側だった。

ポケットのノートの重みを感じながら、悠人は坂道を下りた。事例が弱い。それはわかっている。制度がいかに人を見えなくするかを論じたいのに、見えなくされた人の証言を集めるのは難しい——そもそも「見えない」から記録に残りにくいのだ。この矛盾を誰かに説明したことがあったが、うまく伝わった試しがなかった。

スマートフォンが震えた。

青木俊介からのLINEだった。

「黒澤明が言ってたらしいんだけど『男は人生で三回、本当に危ない選択に直面する。問題は、そのたびに自分が選んでいることに気づかないことだ』」

悠人は歩きながらそれを読んで、三秒止まった。

「誰かに言われた?」と返した。

「いや、今読んでた本に書いてあっただけ。お前はちゃんと飯食った?」

「食べてない」

「だと思った。帰ったらインスタント食べなよ」

悠人はスマートフォンをしまい、また歩き始めた。

黒澤明がそんなことを言ったかどうか、彼には確認する手段がなかった。おそらく俊介が読んでいる本の著者が適当に言っているだけか、そもそも俊介自身が作った言葉かもしれなかった。彼はたまにそういうことをした。

アパートに着いて、コートを脱いで、ポケットからノートを取り出して机の上に置いた。

「神様のリスト」。

蛍光灯の下で見ると、表紙の紺色が少しくすんで見えた。

明日、図書館の落とし物係に届けよう、と悠人は思った。今夜は疲れている。今夜は判断をしない日にしよう。

シャワーを浴びて、冷蔵庫を開けて、俊介の言う通りインスタントラーメンを作った。食べながら机のノートをちらりと見た。見なければよかった、と少し思った。

目を閉じると、「七十二時間以内に、でも一人で抱えないこと」という一行が、まぶたの裏でぼんやりと光った。

第三の筆跡は、妙に丁寧だった。

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