印綬の紐が、蓮夜の指に食い込んだ。
絹ではない。麻を固めて染めたものだ。灰葉の忍術官吏養成所が卒業生に授ける証書は、いつもそういうものだった——それなりに見えて、触れれば粗い。蓮夜は右手の親指と人差し指の間でその紐をわずかに引っ張り、すぐに手を下ろした。
広場には三十七人が並んでいた。
五月の昼下がりにしては、空は白く濁っていた。雲なのか霧なのか判然としない何かが里の上空に薄く張り付き、日差しを殺して、人々の顔をことごとく平らにしていた。演壇の向こう、石畳の向こうに、村人たちが集まっていた。毎年恒例の光景だと蓮夜は知っていた。保護者が来る。近所の者が来る。物見高い老人が来る。そして、新しく任官した忍を眺め、それぞれの持ち分だけ拍手をして、帰っていく。
今年も、そうなるはずだった。
長老・白鐘が演壇に立ったとき、蓮夜は目を細めた。白鐘は七十を超えているはずだが、背は曲がっておらず、声はよく通った。白い礼装の上に里の紋章を縫い取った肩衣を重ね、両手を袖に収めて立つ姿は、権威というより権威の形をした何かに見えた——形が先にあって、中身は後からついてきたような。
「灰葉の忍として、汝らに告ぐ」
白鐘の声が広場に落ちた。石畳が受けて、霧が吸った。
「汝らは今日より、里の盾となり、里の刃となる。先人の血が刻んだ道を歩み、後に続く者のために道を拓け。汝らの名は、里の歴史に刻まれる」
定型の言葉だった。蓮夜は知っていた。三年前の卒業式でも同じ言葉が読み上げられたと、上の期の者から聞いていた。おそらく十年前も、二十年前も。白鐘が草案を書いたわけでもないだろう。誰かが書いたものを、誰かが読み継いできた。
それでも蓮夜は、自分の名が呼ばれる順番を待っていた。
「犬飼桐人」
一人目が前に出る。拍手が起きた。柔らかく、しかし確かな音量があった。前列の女が——桐人の母だろう——目元を押さえていた。
「雨田朔」
二人目。また拍手。今度はやや大きかった。
名前が呼ばれるたびに、蓮夜は広場の空気が微妙に変わるのを感じた。音量の問題ではない。密度のようなものだ。各々の名に、各々の来歴が張り付いている。家柄のある者には家柄の厚みが、顔の知られた者には知名度の厚みが。それが呼称と同時に空気に溶け出して、拍手の質を決める。
蓮夜の番は後半だった。
「渦守蓮夜」
白鐘の声は変わらなかった。読み上げる速度も、抑揚も、前の名前と同じだった。蓮夜は一歩前に出て、証書を受け取り、頭を下げた。
沈黙だった。
完全な沈黙ではない。誰かが咳をした。赤子の泣き声が遠くでした。風が、枯れかけた広場の隅の木の枝をかすかに揺らした。しかしそれは、拍手ではなかった。
蓮夜は顔を上げた。正面を見た。石畳の向こうの人垣が見えた。いくつかの視線が逸れた。逸れなかった視線もあった——ただし、それは好意ではなく、別の何かを含んだ注視だった。蓮夜には分かった。三年かけて、そういう視線の種類だけは習熟していた。
白鐘はすでに次の名前を読み上げていた。
蓮夜は列に戻った。証書の紐が、また指に食い込んだ。
その瞬間、腹の底で何かが動いた。
痛みではない。熱でもない。もっと原初的な、圧力とでも呼ぶべき感覚だった。横隔膜の裏側から皮膚の内側まで、何か大きなものが寝返りを打つような——それが収まると、また何事もなかったように静まった。蓮夜は息を浅く吸って、ゆっくり吐いた。額に汗がにじんでいた。
九の獣、と蓮夜は内心で呼んだ。
呼んでも答えない。呼んだところで何が変わるわけでもない。ただ、それが己の中にいることを、こういうときに限って思い知らされる。白鐘の祝辞が続く中、蓮夜は下腹部に意識を集中させ、その気配が再び沈んでいくのを確かめた。静かにしろ、と思った。今は、静かにしていてくれ。
獣は静かになった。
それが服従なのか、ただの無関心なのか、蓮夜には判断できなかった。
式が終わると、広場は緩やかに解けていった。
同期の者たちが家族と言葉を交わし始めた。笑い声がいくつか上がった。白鐘は演壇を降り、来賓と挨拶を交わしていた。誰も蓮夜のそばに来なかった。
蓮夜は証書を袖に収め、広場の端に移動した。壁際に並んだ枯れた植え込みの前に立ち、もう一度広場全体を見た。仲間の顔があった。三年間、同じ教室で、同じ術式を学んだ顔だった。悪意はないと思う、と蓮夜は思った。彼らは意地悪で拍手しなかったわけではない。ただ、拍手の仕方を知らなかっただけだ。自分が拍手していいのかどうか、判断がつかなかっただけだ。
そういう話だ、と蓮夜は自分に言い聞かせた。
「渦守」
声がした。振り向くと、同期の一人——名を確か、梅沢という——が立っていた。梶の葉を模した家紋の入った羽織を着ていた。それなりの家の子だった。
「おめでとう」
梅沢は言った。短く、素っ気なく。しかし言った。
「ありがとう」
蓮夜も短く返した。
梅沢は一秒ほどそこに立っていたが、やがて視線を逸らして、自分の家族のほうへ歩いていった。蓮夜はその背中を見送った。今の二秒間に何があったのか、蓮夜には正確には分からなかった。憐憫なのか、義理なのか、あるいは本当に何気ない言葉だったのか。人の善意というのは、たいていその種の不透明さを持っている。
蓮夜は広場を後にした。
灰葉の外縁区に入ると、空気が変わった。
里の中心部から東へ向かうにつれ、石畳は途絶え、土の道になり、家々の壁はしだいに黒ずみ、傾いていった。屋根瓦の割れたまま放置された家がある。雨戸が腐って外れかけた家がある。井戸の縁に苔が張り、どこかから腐葉の匂いが漂ってくる。蓮夜が三年間暮らしたのはこの地区だった。養成所に入る前から、もっと前から、ずっとここだった。
外縁区を好んでいるわけではない。ただ、慣れ親しんでいた。朽ちたものの中で育てば、朽ち方の種類が分かるようになる。どの建物がまだしばらく持ちこたえるか、どこの道が雨後に泥濘になるか。そういう知識は書物では学べない。
蓮夜は歩きながら、証書を袖から取り出した。
「渦守蓮夜は、灰葉忍術官吏養成所における所定の課程を修了し、忍の任に服する資格を有することを認める」
文字は丁寧に書かれていた。墨の質も悪くなかった。ただ、他の卒業生の証書と何一つ変わらないだろうという確信があった。同じ文面。同じ用紙。同じ形式の印璽。蓮夜の名前だけが、空白に書き込まれた。
長になる。
蓮夜は歩きながら、また思った。この里の長に、自分はなる。
声に出すと、周囲に聞こえる。だから声には出さない。しかし何度も、こうして心の中で繰り返してきた。養成所に入った最初の夜から、ずっとそうしていた。拍手がなかった日も、術式の試験で最下位に近い点数を取った夜も、廊下ですれ違った同期に目を逸らされた朝も。
長になる。この里の——
何かが、その言葉にひっかかった。
蓮夜は立ち止まった。
道の中ほど、水たまりの横で、蓮夜はしばらく動かなかった。水たまりの表面に、白く濁った空が映っていた。どこかで烏が鳴いた。風が、腐葉の匂いを運んできた。
今日、白鐘は全員の名を読み上げた。いや——蓮夜は記憶を確かめた——そうではない。全員の名を読み上げて、全員に同じ祝辞の言葉を送った。しかし、一度だけ、祝辞の一節で、白鐘は「汝らの名は、里の歴史に刻まれる」と言った。そのとき、白鐘の視線は、わずかに蓮夜を外れていた。
それは気のせいかもしれない。人の目線の動きなど、感情や疲れや光の加減で変わる。一回の視線のずれから何かを読み取るのは、早計というものだ。
蓮夜はそう考えた。そう考えることにした。
水たまりを踏まないように脇を通り、また歩き始めた。腹の底の獣は、まだ静かだった。
長になる。
今度は、声に出した。外縁区の路地に、その声は吸われてすぐ消えた。
反響がなかった。
家に戻ると、扉の蝶番がまた緩んでいた。
引き戸の溝が歪んでいるので、開け閉めするたびに少しずつ木が削れていく。養成所に入る前から気になっていたが、直す道具も技術も金もなかった。蓮夜は扉を引き、体をやや斜めにして中に入った。
土間に荷物を置いた。証書を机の上に置いた。
窓の外、外縁区の屋並みの向こうに、里の中心部の屋根がかすかに見えた。白壁の行政棟。二層になった評議所の建物。その頂に、灰葉の旗が一枚、弛んで垂れていた。風のない日だった。
長になる、と蓮夜はもう一度思った。
今度は、どこか腹の底に力が入らなかった。
それが疲れのせいなのか、あるいは別の何かのせいなのか、蓮夜にはまだ分からなかった。ただ、いつもより少し、その言葉が重かった。重いというより——何かに反論しているような、そういう感触があった。
誰に向かって?
蓮夜は机の前に座り、証書を眺めた。
外で、また烏が鳴いた。