Chapter 1: The Ash at Kurayama Village

刃が空を切った。

音はなかった。鬼の身体が崩れるとき、悲鳴はあがらない。ただ夜の空気が一度だけ震えて、それからすべては静かになる。

月は雲に隠れていた。山の暗さというのは、町の暗さとはちがう。町の夜には遠い灯りの気配がある。だがここには何もなかった。廃村というのはそういうものだ。人が去れば、光も去る。残るのは草の匂いと、腐った木の湿気と、忘れられた時間だけだ。

水瀬透は刀を鞘に収めた。

足もとに灰があった。

人が鬼になるとき、なにかが失われる。鬼が斬られるとき、残りのなにかも失われる。最後に残るのは灰だけだ。透はいつも、その灰を見下ろす癖があった。他の暁露衆の仲間たちは、鬼を討ち果たすと刀を拭い、暗闇に背を向け、次の仕事へと向かった。透にはそれができなかった。しゃがみこんで、灰を見つめてしまう。なぜそうするのか、聞かれたことはない。仲間たちはそういう透の性質を、奇妙なものとして遠巻きにしていた。

かがんで、指の先で灰に触れてみる。冷たかった。まだ夜の半ばで、気温はさらに下がっている。灰は指の腹にざらりとついて、風が吹くとすこし舞った。

この灰が、清兵衛だった。

透はもう一度それを思う。

この灰が、清兵衛だった。

廃村の名は倉山村という。山の斜面に張りつくようにあった集落で、干ばつと借金で十年かけてゆっくりと死んでいったと、暁露衆の任務書には書いてあった。最後の住人が出ていったのが三年前。鬼が現れたのが半年前。近隣の村からの届け出によれば、夜になると山から唸り声が聞こえ、二度ほど人が行方知れずになっている。

透が暁露衆の本部から倉山村への道を歩いたのは昨日の朝だった。山道は荒れていた。かつては踏み固められていたはずの土が、三年で草に食われ、ところどころ獣の足跡だけが残っていた。民家の跡には雨風に半壊した板壁があり、井戸の縁には苔が生えていた。透はそれらをひとつひとつ目で確かめながら、かつてここに人が暮らしていたことを想像した。朝の煙、子どもの声、誰かが踏む縁側の軋み。想像というより、記憶に近い感覚だった。透自身も、故郷の村を持っていたから。

夜になると鬼が現れた。

形は人の形をしていたが、もう人ではなかった。目が黄色く光り、指が長く伸び、声のかわりに低い唸りが喉から出ていた。透は物陰でそれを見て、少しのあいだ動けなかった。動けないのは恐怖ではなかった。恐怖であれば慣れている。透が動けなくなるのは、いつも別の感覚のせいだ。鬼の動きの中に、人の動きの名残を見てしまうことがある。今夜の鬼は、廃村の端に残る社の前で立ち止まって、しばらくそこを見ていた。その立ち姿がどこか祈るような形をしていた。

それを見ながら、透は刀の柄を握り締めた。

戦いは短かった。暁露衆の剣は鬼を斬ることに特化している。透は三年の修練でその技を身につけ、仕事は確かにできた。木立の陰から踏み出して、間合いを詰め、一太刀。鬼は振り向きながら腕を振るった。透は身を低くして躱し、二の太刀。そこで終わりだった。

音はなかった。

灰だけが残った。

透は廃村の中を歩いて、いちばん状態のましな建物を探した。庄屋の家だったと思しき家屋は、屋根の半分が落ちていたが、縁側だけはまだ使えた。板は湿っていて、腰を下ろすと軋んだ。透は刀を傍らに置き、背負っていた荷の中から竹筒の茶を出した。昨日の朝に淹れたものだから、とうに冷めている。だが今夜は火を起こす気になれなかった。

茶碗に注いで、両手で包む。

冷たかった。

空が白むまでまだ時間はある。透は縁側に座ったまま、灰のある場所を見ていた。夜目が利くので、暗がりの中でも灰の輪郭が見える。風がなければ、灰はそこにある。風が吹けば、消える。

そのとき、足もとに何かがあることに気づいた。

縁側の端、閾のすぐそばに、紙が落ちていた。透は腰を上げて、それを拾った。

綴じられた帳面から引き剥がされたような紙で、端がぼろぼろに破れていた。雨に濡れたのか字がところどころ滲んでいたが、読めた。

筆跡は丁寧で、細かく、几帳面だった。

今日また父上と口論になった。借財のことだ。もう誰の顔にも明日への望みがない。私にできることは何か。私に何ができるのか。せめて子どもたちだけでも、よい場所へ逃がしてやれないか。母上の形見の簪を売れば、少しは足しになるかもしれない。だが父上のお顔が。

そこで文は途切れていた。

透は紙を手の中に持ったまま、動かなかった。

清兵衛。

任務書に書かれていた名前を、透は心の中でもう一度呼んだ。倉山村の庄屋の息子、清兵衛。温和で学問好きな若者で、近隣の子どもたちに借り物の書物を読み聞かせていたという。父親の借財が膨らみ、干ばつが二年続き、村が死んでいく中で、清兵衛は何かをしようとしていた。何ができるかと問い続けていた。

その先に何があったのか、透は知らない。

どんな経緯で鬼になったのか。なにを望んで、なにと引き換えにしたのか。任務書には書かれていなかった。おそらく誰も調べなかった。鬼が出た、討つ、それだけだ。それ以上のことは暁露衆の仕事ではない。

頭ではわかっている。透は茶碗を口に近づけ、ひとくち飲んだ。冷たい茶が喉を通った。

だが。

縁側の外に、灰の輪郭がある。さっきより白んだ空気の中で、それはすこし見えやすくなっていた。透はその形を目で辿った。人の形はしていない。ただの、灰だ。

人の形はしていないが、透にはわかってしまう。そこに何があったかを。何が消えたかを。

胸の中に積もるものを、透は悲しみとは呼ばなかった。呼び方を知らなかった。ただ、茶碗を両手で包む力が少し強くなった。縁側の板が冷気を伝えてきた。足先から、じわじわと。

空の端が白くなり始めた。

夜明けはいつも、光より先に音が変わる。遠くで鳥が鳴いた。山の朝は冷える。透の息が白く、空気の中に溶けた。

紙はまだ手の中にある。

折って、懐に入れた。

なぜそうしたのか、透は自分でも説明できなかった。任務書に添付すべきものかもしれなかった。証拠品として、本部に提出すべきものかもしれなかった。だがそうする気になれなかった。この文字を、誰かの書類の中に紛れ込ませることが、何かを裏切るような気がした。何を、とは言えない。ただそう感じた。

灰は、まだそこにある。

透は茶を飲み干し、空になった茶碗を膝の上に置いた。縁側の端を見る。閾の木が長い年月で黒ずんでいた。清兵衛はここを何度踏んだだろう。子どもたちに本を読み聞かせる日も、父親と口論した夜も、誰もいなくなった後も、この閾を越えて、外へ出ていったはずだ。

空が白くなる。

灰が、白い空気の中で少しだけ薄くなった。

透は動かなかった。

まだここにいる必要があるような気がした。誰かが、もう少しだけここにいなければならない気がした。自分でなければならない理由はなかった。それでも透は、縁側に座ったまま、夜明けの光がゆっくりと廃村を満たしていくのを、見ていた。

暁露衆の仕事は終わっている。

鬼は討たれた。

清兵衛は灰になった。

残るのは静寂と、冷たい朝と、灰の形だけだ。

それを見ていることを、悲しみとは言わないのかもしれない。言わなくていいのかもしれない。ただ透は、誰もいないその場所で、両手に空の茶碗を持ったまま、夜が終わるのを見届けた。

鳥がまた鳴いた。今度は、すこし近くから。

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