雪が、降っていた。
静かではなかった。雪というのは本来、世界の音を吸い込んで静寂を作るものだが、この雪は違った。叫び声が混じっていた。金属の激突する音が混じっていた。そして何か、もっと湿った、重い音が混じっていた。
坂田銀時は、路地の石畳に頬をくっつけた状態で目を覚ました。
冷たかった。それだけははっきりわかった。頬の下の石はぬかるんで、半ば泥と化した雪が耳の穴に入り込んでいた。着物の背中は濡れていて、息を吸うと肺の中まで三月の寒気が満ちた。木刀が右手に握られていた。これだけは、何があっても離さないらしかった。
(……どこだ、ここ)
体を起こした。膝が石畳をこする感触。頭の中で何かがぐらりと揺れた。二日酔いに似ているが、酒は飲んでいない。少なくとも、直前の記憶には酒がない。
記憶に、あるのは——
雪。桜田門。人の群れ。刃。
そこで記憶が途切れていた。
(まずい匂いがする)
血の匂いだった。鉄錆と熱の混ざったあれ。路地を出た先の大通りから漂ってくる。叫び声はそちらから聞こえていた。男の声、複数。それから蹄の音。馬が狂ったように走っている。
銀時は路地の壁に手をつきながら立ち上がった。目の前に通りがある。通りの向こうに、雪に煙る黒い塀が見えた。
あれは——城の堀だ。
江戸城の、外堀だ。
(なるほど)
なるほど、と思った。しかし「なるほど」の後に続くべき何かが、うまく組み立てられなかった。
馬が二頭、視界の端を駆け抜けた。騎手の羽織には見覚えのない家紋。その後を人が走っている。走っている人間の息が白く、顔が青白く、口が何かを叫んでいたが、距離があって聞こえない。刀を抜いた者も見えた。脇差を、ではなく、刀を、だ。鞘を捨てて。
路地の入口から首だけ出して、銀時はその光景を眺めていた。
(やばい、これは)
本当の「やばい」だった。
万事屋の看板を探す気にもなれなかった。第一、あるわけがない。どこかの窓から神楽が「銀さーん、なんか事件ですよー」と声をかけてくる気配もまったくなかった。新八が眼鏡を光らせながら背後に立っているわけでも、お登勢さんが二階から怒鳴るわけでも、何でもない。
雪と血と、誰かの悲鳴と、桜田門の外堀だけがそこにあった。
(ここは)
(本物だ)
その認識が、思ったより静かに落ちてきた。石が水に沈むように。音もなく、抵抗もなく、ただ真っ直ぐに底へ。
大通りに人が増えていた。逃げている者と、追っている者と、立ち竦んでいる者。幕府の役人らしき黒衣の男たちが、路地の入口を一つずつ塞いでいくのが見えた。組織的だった。素早かった。何かが起きて、すでに封鎖が始まっている。
それがいつの何であるか、銀時には検討もつかなかった。
ただ、路地の出口を塞がれる前に動く必要がある、ということだけはわかった。
身を翻して路地の奥へ向かおうとした、その瞬間。
「そこの者、止まれ」
声が来た。
振り返ると、路地の入口に男が立っていた。三十がらみ。着古した羽織、濡れた裾。目が血走っていた。右手に刀、すでに半ば抜いている。羽織の胸元に、返り血らしい赤黒いものが滲んでいた。
雪の中で、二人は向かい合った。
「見たか」と男は言った。喉が震えていた。「見ていたか、お前」
(見ていたか、と聞かれても)
何を見ていたのか、銀時自身がよくわかっていない。しかし今この男の目を見ると、「見ていない」と答えたところで信じてはもらえないとわかった。返り血を浴びた男の目は、そういう目をしていた。もはや答えの内容より、この場に存在したこと自体が問題なのだ。
刀が完全に抜かれた。
「口を封じさせてもらう」
「いや待て、俺は何も」
「問答無用」
問答無用、と本当に言う人間を初めて見た、と銀時は思った。それを思ったのが、刀が振り下ろされる寸前だったから、笑う余裕はなかった。
体が動いた。
意識より先に、体が動いた。
右手の木刀を斜めに上げ、振り下ろされる刃をいなす。鋭い衝撃が手首から肩まで走った。木と鉄がぶつかる乾いた音。そのまま体重を乗せて押し返し、男の手首の角度が崩れたところへ木刀の石突きを脇腹に入れた。
男が「うっ」と声を上げて後退した。
刀が石畳に落ちる音。
銀時は動かなかった。木刀を構えたまま、ただ男を見ていた。男は壁に背をぶつけて止まり、腹を押さえ、荒い息をついていた。
(殺してない)
それだけ確認して、銀時は刀を素早く蹴り、男から遠ざけた。
「俺はお前の仲間じゃないし、敵でもない」と銀時は言った。「見ていたかどうかも覚えていない。本当に。お互い、ここにいない方がいい。そう思わないか」
男はしばらく銀時を見ていた。恐怖と怒りと、おそらく混乱が、顔の上で入り交じっていた。やがて何も言わずに、壁を伝って路地の奥へ消えた。走ることもできずに、ただ足を引きずって。
銀時は一つ息を吐いた。
白い息が、雪の中に溶けた。
(木刀で刀をいなした)
考えてみると、かなりまずいことをした。本来、木刀は刀に勝てない。勝てないはずだが、体が勝手にやった。体が覚えているらしかった。誰かと戦い続けた何年かの記憶が、筋肉の中に沈殿しているらしかった。
それは頼りになる、とも言えるし、恐ろしい、とも言えた。
大通りの方で、また誰かが叫んでいた。
銀時は木刀を帯に差し、路地の奥へ歩き始めた。表には出られない。封鎖が広がっている。どこかで壁を越えるか、堀沿いに迂回するか、とにかく人の少ない方へ向かうしかない。
路地は狭く、薄暗かった。雪は路地にも積もっていて、足音が少し吸われた。湿った木の壁が両側に迫っていた。どこかの家から、子供の泣き声が聞こえた。どこかの家の誰かは、今この瞬間も、普通の朝の続きを生きているらしかった。
(安政七年)
と銀時は思った。
三月だ、とすれば——桜田門外で何かが起きた、三月の安政七年。
記憶の中の、誰かから聞いた話。誰から聞いたのかはうまく思い出せなかった。あの世界の誰か。今はもう、別の場所にいる誰か。
(大老が殺された年だ)
それだけわかった。それ以上は思い出せなかった。思い出したところで、どうすることもできないとも感じていた。
歴史というものは、知っていても止められない。第一、止める気もない。
ただ、今日一日、死なずに済む場所を見つけることが、今の銀時にとってのすべてだった。
路地の突き当たりに木戸があった。壊れかけた木戸で、鍵はとうの昔に腐っていた。肩で押すと、きしんで開いた。その先は別の路地で、さらに奥へ続いていた。
銀時はそこへ入り、木戸を戻した。
雪は降り続けていた。
しんしんと、という擬音が本来似合うはずの降り方で、しかし今日の雪には悲鳴の残響が混じっていた。桜田門からそれほど遠くない。まだ声が聞こえてくる。
(ギャグは通じない)
とふと思った。
あの刀を抜いた男に「やあやあ、俺は通りすがりの木刀使いだよ」とでも言ったとして、突っ込んでくれる者は誰もいない。どんな間の抜けたことを言っても、この時代は笑ってくれない。笑いを返してくれる文脈が、この時代にはない。
それが意外に、腹に来た。
笑いが武器だった、というわけではないが、少なくともあれは防具だった。間の抜けた何かを言って、相手の緊張をほぐして、その隙に状況を作り直す。それができない世界というのは、思ったより息が詰まった。
木刀の握りが、じわりと温かくなった。走ったわけでもないのに、手のひらに汗が出ていた。
(まあ)
(とりあえず、今日は死なない方向で)
銀時は雪を踏んで、路地を進んだ。
どこへ向かうのかわからなかった。江戸の地理を、完璧に知っているわけではない。ただ、人の声がする方へは行かない。馬の音がする方へは行かない。黒衣の役人が路地を塞いでいる方へは行かない。
それだけを守って歩けば、どこかへ出る。
どこかへ出れば、とりあえず飯のことを考えられる。
飯さえ食えれば、明日のことを考えられる。
明日のことを考えるということは、生きているということだ。
雪の路地は奥へ続いていた。江戸城の堀の向こうで、何かがまだ燃えているのか、空のどこかがわずかに赤かった。
坂田銀時は、木刀を握り直し、その赤い空を見上げて、それから前を向いた。
笑いが通じないなら、とりあえず黙って歩く。
笑えない時代というのは、存外そういうものかもしれなかった。