Chapter 1: The Notebook Falls on Ichibancho Street

雨が、降っていた。

ただそれだけで、仙台の一番町はもう十分に憂鬱だった。火曜の夜の十一時すぎ、商店街のアーケードが途切れる角に差し掛かると、柊誠司は傘のない手でコンビニのレジ袋を持ち替えた。中身はカップ麺と缶ビール一本と、賞味期限が今日までのおにぎり。合計で六百八十円。財布に残ったのは千二百円と、くしゃくしゃになった百円玉が三枚。

誠司は傘を持っていなかった。正確には、持つのを忘れたのではなく、最後に傘を失くしたのがいつかを思い出せないほど昔のことで、それ以来ずっと持っていなかった。雨に濡れながら歩くことに慣れすぎると、人間は傘というものの存在を少しずつ忘れていくらしい。

コンビニのシフトは夕方の四時から夜の十一時まで。時給は九百八十円。七時間で六千八百六十円。週に五日入れば、月でだいたい十三万円ちょっと。そこから家賃と光熱費と食費を引くと、残るのは諦めに似た何かだ。

それが二十八歳の柊誠司の、今月の収支だった。

アーケードの切れ目を曲がった瞬間、真横から風が来た。冷たく、少し生ぐさい、四月の雨混じりの風だった。誠司は目を細めて歩き続けた。

そのとき。

何かが、落ちてきた。

音もなく。影もなく。ただ、落ちてきた。

誠司の足元に、薄い冊子が一冊、ぺたりと貼りついた。アスファルトの水たまりに表紙の半分が浸かり、残りの半分が雨に打たれていた。誠司は立ち止まって、上を見た。

何もなかった。

ビルの三階には電気が消えており、窓は閉まっている。四階も五階も、同じだ。雨が降っている。風が吹いている。ただそれだけで、そこには何もいなかった。鳥でも、人でも。

誠司は十秒ほどそのまま立っていた。それからしゃがんで、水たまりの縁から冊子を拾い上げた。

表紙は黒かった。何の飾りもない。ただ中央に、筆で書いたような文字が白く浮かんでいた。

消去リスト

以上だった。副題も、出版社も、著者名も、何もない。

誠司は表紙をめくった。最初のページには説明書きらしき文章が、印刷ではなく手書きで、整然と記されていた。書体は几帳面すぎて、かえって機械的に見えた。

曰く、このノートに名前と顔を記した者は、七十二時間以内に存在を消去される。死ではない。記録から、記憶から、この世界の因果の網から、完全に取り除かれる。消去とは抹消であり、それ以上でも以下でもない。

誠司はページを閉じた。

雨が降っていた。

彼は三秒ほど考えてから、ノートをレジ袋の中に入れた。カップ麺と缶ビールの間に。それからまた歩き始めた。さっきと同じ速度で、さっきと同じ方向に向かって。

ただ、顔だけが少し、違っていたかもしれない。

誠司の部屋は、荒れていなかった。

むしろ、整然としていた。本棚には文庫本が背表紙を揃えて並び、床に物は落ちていない。机の上だけが、別の論理で支配されていた。

スクラップブックが一冊、開いたまま置かれていた。その周囲に、切り抜いた新聞記事が重なり合うように広げられている。赤いボールペンで書かれた書き込み。黄色い蛍光ペンで引かれた線。そして隅に、小さな字で書き留められた日付と名前。

誠司は濡れたジャケットを壁のフックに掛け、カップ麺に湯を注ぎ、三分待つことなくレジ袋からノートを取り出した。机の前の椅子に座って、もう一度ページを開く。

説明書きをもう一度、ゆっくり読んだ。

書き方に特別な作法はなかった。名前と、その者の顔を思い浮かべながら書け、とだけ指示されていた。道具も条件も、それだけ。シンプルすぎて、かえって疑う気にもなれなかった。

誠司は机の引き出しを開けた。

一番上には、一枚の新聞記事が折りたたまれて入っていた。折り目が白く擦り切れているほど、何度も開き閉じされた形跡がある。

広げると、見出しが見えた。

「仙台市内マンション崩落事故 三名死亡 行政の審査体制に疑問」

二年前の記事だった。写真が三枚。崩れたマンションの外壁。担架。そして記者会見の席に座る、国土交通省の中堅官僚の顔。

成田文雄、五十二歳。

小太りで、眼鏡の奥の目が少し泳いでいる。ネクタイが曲がっている。会見場の照明の下で、彼の額にだけ、薄く汗が光っていた。手抜き工事を見逃した見返りに賄賂を受け取った疑いがあると追及された彼は、「手続きに瑕疵はなかった」と繰り返した。その後、疑惑は有耶無耶のまま、彼は別の部署へと異動した。死んだ三人の作業員の名前は、記者会見では一度も出なかった。

誠司はノートの最初のページをめくった。真っ白な、何も書かれていないページが現れた。

シャープペンシルを手に取った。

少し考えた。いや、正確には考えなかった。七年分の新聞記事を読み続けてきた人間には、この瞬間のための準備が、とっくにできていたのだ。

成田文雄、と書いた。

それから新聞の写真を机の上に置いて、顔を描いた。絵が上手いわけではない。丸い輪郭、眼鏡、泳いだ目、曲がったネクタイ。記号のような似顔絵だった。でも彼は確かに、成田文雄の顔を思い浮かべながら描いた。

ペンを置いた。

ノートのページは、何も変わらなかった。

光らなかった。震えなかった。インクが滲んだり、文字が消えたり、別の何かに変わったりもしなかった。部屋の空気が変わった気配もない。窓の外の雨音が変わったわけでもない。

ただ、成田文雄という名前と、下手な似顔絵が、ノートに書かれた。それだけだった。

誠司はしばらくそのノートを見つめた。

怖い、と思った。

超常的な何かを見たから怖いのではなかった。光ったり唸ったりしていれば、むしろ安心できたかもしれない。フィクションの言語で解釈できるから。

怖かったのは、何も起きなかったからだ。

これが本物なら、世界はこれほどあっさりと変わるのかもしれない。手書きの名前と、下手な似顔絵と、七時間分の時給で買ったカップ麺の隣で。そういう場所で、世界が変わるなら。

誠司はカップ麺の蓋を開けた。

湯が冷めかけていた。三分とっくに過ぎていた。麺は柔らかくなりすぎていたが、彼は気にしなかった。食べながら、机の上の新聞記事を眺め続けた。

成田文雄の、眼鏡の奥の、少し泳いだ目を。

七十二時間、と誠司は頭の中で繰り返した。

窓の外では、雨が降り続けていた。

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