目の前が暗い。
地面が硬い。
そして鼻の奥に、ひどい匂いがある。
銀時はそれを嗅いだ瞬間、瞼を開く前に何かが違うと気づいた。焦げた木。鉄錆。それから、もっと生々しい何か。腸の匂い、と頭の別の部分が即座に分類した。戦場育ちの身体が、意識より先に世界を読んでいる。
起き上がった。
路地裏だった。土の地面。古い木塀。頭上に見える空の切れ端は灰色がかった茜色で、夕暮れか夜明けか判然としない。銀時は目をこすって、もう一度見た。電柱がない。コンビニがない。アスファルトがない。代わりにあるのは石畳と泥と、どこかから漂ってくる火薬の焦げた臭いだった。
「……は?」
声が出た。自分の声だった。それだけは確認できた。
身体を検分する。着ているのは見慣れた白い着流し。腰に差してあるのは木刀一本。懐に手を入れると硬い感触があり、引っ張り出すと革紐で結んだ小銭入れだった。中身を確認する気も起きず、ポケットに放り込もうとして、ポケットがないことに気づいた。
スマートフォンがない。
当たり前だ。着流しにポケットはない。じゃあどこに、と思いかけて止まった。着流しを着ているとき、銀時はいつも小さなポーチを帯に挟んでいる。その習慣でスマートフォンを突っ込んでいるはずだったが、帯の中を探っても指先に当たるのは何もなかった。
「スマホ……」
呟いた瞬間、遠くで何かが炸裂した。
ドォン、という腹に響く音。一発ではない。間を置いて三発、四発。銀時は反射的に木塀に背を押しつけ、音の方向を確かめた。西の方。煙が上がっている。黒い、もくもくとした煙が、夕暮れの空に染みを作っていた。
砲声だ。
ギャグでも、酔っ払いが花火を打ち上げているのでもなく、本物の、人を殺すための砲声だった。
「ちょっと待て」と銀時は言った。誰に言うでもなく。「ちょっと待ってくれ、頼む。これ夢か?夢でしょ?だって俺、確か万事屋で寝てたはずで——」
路地の入り口で何かが倒れた。
人間だった。
男だった。若い。十七か十八か、もしかしたらそれより下かもしれない。袴の裾が泥で黒く汚れていて、脇腹のあたりが赤かった。刀傷、と銀時の身体がまた意識より先に結論を出した。走ってきたのか、倒れ込むようにして膝をついて、そのまま横に崩れた。
銀時は動いていた。
考えて動いたわけではなかった。気づいたら男の隣に膝をついていた。身体が勝手にそうした。二十年以上、戦場と喧嘩と泥の中で生き延びてきた身体が、倒れた人間を見るとひとりでに動く。
「おい」と声をかけた。「おい、聞こえるか」
男は目を開いていた。銀色の空を見ていた。焦点が定まっていない。口が少し開いて、何か言おうとしている。
「喋るな」と銀時は言った。「傷口、見るから。喋るな」
着流しの袖を引き裂いた。やや手間取ったが、力任せにやれば絹でも裂ける。丸めて傷口に当てた。男の脇腹の、肋骨の下あたりに縦に走る切り傷だった。深い。ひどく深い。布を押し当てた瞬間、男が短く呻いた。
「痛えよな」と銀時は言った。「我慢しろ、少しだけ。圧迫して止めるから。大丈夫だ」
大丈夫、という言葉を口にした瞬間、舌の上でそれが嘘の形をしていることがわかった。
出血量が多い。内臓をやられている可能性がある。外科手術もない、輸血もない、抗生物質もない、この場所で、この傷は——
「大丈夫だから」と銀時はもう一度言った。
男の唇が動いた。
「……な、にが」
「あ?」
「なにが、大丈夫、なんじゃ」
土佐弁だった。力の抜けた、かすれた土佐弁だった。男は薄く笑っていた。自分が何者かわかっているような笑い方だった。
「お侍」と男は言った。「わしは、もう」
「黙れっつってんだろ」
「いくら黙っても、死ぬ」
銀時は返事をしなかった。布を押し当てる力を変えなかった。男の手が上がってきて、銀時の腕に触れた。力が入っていなかった。ただ触れただけだった。
「……寒い」と男は言った。
夕暮れの路地裏に風が通った。火薬の臭いを運んでくる風だった。銀時は空いている方の手で男の肩に触れた。背中から地面の冷たさが上がってきているはずだった。土の地面は夏でも夕方になると熱を放してしまう。
「侍は、何人も、連れとるか」と男は聞いた。
「俺一人だ」
「一人で」
「ああ」
「負けたんか」
負けたのかどうか、銀時にはわからなかった。自分がどこにいるのかもわからない。何年にいるのかも。ただ砲声は続いていて、遠くで怒鳴り声が上がっていて、江戸でないことだけは確かだった。いや、江戸かもしれない。形は江戸だ。ただ、銀時の知っている江戸ではない。
「お前は誰の人間だ」と銀時は聞いた。
「倒幕の」と男は言った。「草莽隊の、端くれよ」
「そうか」
「侍は」
「……万事屋だ」
男が少し目を動かした。意味がわからなかったのかもしれない。銀時もうまく説明する言葉を持っていなかった。
「用心棒でも、間者でも、なんでもやる。それだけだ」
「おかしな、侍」
「うるさい」
男の手から力が抜けた。完全に抜けた。
銀時は布を押し当てたまま、しばらくそこにいた。立ち上がろうとしなかった。男の胸がまだわずかに上下しているうちはそこにいた。上下しなくなっても、すぐには立ち上がらなかった。
遠くで砲声がまた響いた。
夜が来ていた。煙の向こうに星が出ていた。
銀時はゆっくり立ち上がった。
血で濡れた手を見た。自分の袖を裂いた端切れを見た。地面に横たわっている、名前も知らない若い男を見た。
「……悪かったな」と言った。
声が妙に凪いでいた。怒鳴りたかったのかもしれない。泣きたかったのかもしれない。ただ何も出なかった。出るべきものが出てこなかった。
路地の壁に背中を押しつけて、周囲を確認した。
木刀。小銭入れ。着流しの袖がない。
スマートフォンはない。シンパチも、神楽も、定春もいない。春雨のでかい飛行船も、天人が作った高層ビルも、空気を汚染するネオンサインも、何一つない。
あるのは、本物の江戸か、本物の長州か、本物のどこかの城下町の、本物の路地裏と、本物の死体だった。
笑えよ、と銀時は自分に言った。
こういうとき笑えるだろ。お前ってそういう奴だろ。どんな場面でもとりあえず軽口を叩いて、深刻にならないふりをして、それでやり過ごしてきたんじゃないか。
口の端が動いた。笑おうとした。
笑えなかった。
何も掴めなかった。笑いの形を作ろうとしても、形の土台になる何かが、この路地裏には存在しなかった。銀時の軽口はいつも、安全圏があってはじめて機能する。誰も本当には死なないという確信か、死んでも取り返せるという信頼か、あるいは笑いを受け取ってくれる誰かの顔か。
それが全部、ない。
銀時は木刀の柄を握った。
硬い木の感触だった。本物の鉄と鋼ではなく、ただの木。刃もない。鞘もない。これで何かを守れるかといえば、正直なところ心もとなかった。天人相手の喧嘩ならともかく、本物の幕末の、本物の抜き身の刀を前にして、木刀が通じる保証はどこにもない。
でも他に持っているものがなかった。
「……さて」と銀時は呟いた。
砲声の方向から離れるように、路地の奥へ歩いた。まず生き延びる。状況を把握する。帰る方法を探す。その順番でやるしかない。それ以外に考えられることが、今の銀時にはなかった。
足元に、草莽隊の男の血が黒くなりはじめていた。
銀時は振り返らなかった。
振り返ったところで、何もできない。してやれることは全部、すでにした後だった。
路地を抜けると、川沿いの道に出た。向こう岸に火の手が上がっている。橋の上を人が走っている。武装した集団が松明を持って検問をしている。篝火の明かりが揺れていて、顔が赤く染まっている。侍の顔だった。本物の侍の顔だった。銀時の知っている侍の顔ではなく——コメディでなく、SF活劇でもなく、ただ純粋に剣で人を殺すことを職とした男たちの顔が、篝火の中に並んでいた。
銀時は橋から遠ざかった。
血で汚れた自分の手をもう一度見た。
本物だった。
全部、本物だった。
笑い飛ばせる要素が、銀時の周囲三十六メートル以内に、一つも存在しなかった。