炭の匂いがした。
目覚めたとき、凛太郎がいちばん最初に感じたのはそれだった。杉の木に染みた煙の匂い、焦げた土の匂い、父の仕事着についた汗と炭の匂い。それは霧木葉の朝にどこまでも溶け込んでいて、冬の冷気の中にあってさえ、ひとつの温かみを持っていた。
縁側の雨戸の隙間から差し込む光が薄く白かった。雪だ、と凛太郎は思った。昨夜から降り続けていた雪が、今朝になってもまだやんでいないのだろう。
「凛太郎」
母の声が台所の向こうから聞こえた。
「起きた?早う来なさい。飯が冷める」
柔らかな声だった。霧木葉の朝は決まってこの声で始まった。凛太郎は十四年間、その声を目覚ましがわりにして生きてきた。今朝もそれは同じはずだった。
「はあい」
凛太郎は布団から体を引きずり出し、厚手の綿入れを肩に掛けた。板間の冷たさが足の裏に刺さった。隣に敷かれた妹の布団はもぬけの空で、澄江はもう起き出している。あの子はいつも自分より早起きだった。
台所に向かいかけて、凛太郎は縁側の戸を少しだけ引いた。
雪だった。
昨夜から降り積もった雪が、山の斜面をすっかり白く塗り込めていた。炭焼き窯のある場所まで伸びた小道が、もう轍の跡もなく、ただ静かな白の面になっている。杉の枝が雪の重さに撓み、時折さらさらと白いものを落としていた。
きれいだと思った。
ただそれだけのことだった。
戸を閉め、凛太郎は台所に向かった。そこで彼の朝はあたりまえのように続くはずだった。
続かなかった。
台所には誰もいなかった。
竈の前に立っていたはずの母の姿がない。鍋の中身がぐらぐらと煮立ったまま、手入れする者のない火の上で、白い湯気を立ち上らせていた。
おかしい、と凛太郎は感じたが、その感覚にまだ名前をつけられなかった。
「かあさん」
返事がない。
裏口の板戸が半開きになっていた。外から冷気が流れ込んでいる。雪の匂いがした。そしてもうひとつ、別の何かの匂いが。
鉄のような、潮のような。
凛太郎は裏口に近づいた。足の裏が濡れた。視線を落とすと、板間の上にどす黒い水たまりができていた。
それが何かを理解するより先に、体が動いていた。
裏口の戸を開ける。
雪の上に、母が倒れていた。
凛太郎の頭の中で、何かが大きな音を立てて止まった。
その後のことを、後になって彼はうまく思い出せなかった。ただ、気づいたときには雪の中に膝をついていた。母の名を呼んでいた。何度も。声が出ていたのか、それとも口を動かしていただけなのか、自分でもわからなかった。
雪が赤かった。
それだけが、はっきりとしていた。
白い雪の中に、赤い色がじわじわと広がっていた。夜の間に降り積もった清潔な雪が、その赤によって汚されていく様子を、凛太郎はしばらくの間ただ眺めていた。眺めることしかできなかった。
母の体に触れようとして、手が震えた。
「かあさん」
声になった。しかし母は答えなかった。
どれくらい時間が経ったか。
凛太郎は立ち上がった。立ち上がらなければならないと思ったわけではなかった。体がそうした。何かに引き立てられるように。
父は炭焼き窯の近くにいた。
小道を辿ると、雪の上に大きな足跡が乱れていた。もがいた跡だと凛太郎にはわかった。父は体が大きかった。山仕事で鍛えた肩は、凛太郎が両手を広げても抱えきれないほどだった。それでも、倒れていた。斧が脇に投げ出されていた。刃に、雪の白さと違う色が付いていた。父は何かに抵抗したのだ。それがわかった。
「とうさん」
父も動かなかった。
凛太郎は膝をついた。雪の冷たさが膝頭に食い込んだが、感じなかった。父の大きな手に自分の手を重ねた。父の手はもう冷えていた。山仕事のたこで固くなった手だった。凛太郎がまだ小さかった頃、山を歩くときにその手に握られると、なんでも怖くなかった。
今は冷たかった。
凛太郎はただそこに座っていた。雪が降り続けていた。細かな雪が、父の体にも自分の肩にも、静かに積もっていった。
澄江。
はっとして凛太郎は立ち上がった。
妹の姿が、まだどこにも見えない。
走った。家に戻り、土間を抜け、部屋から部屋へと声を上げながら走った。澄江、と叫んでいた。声が山の斜面にぶつかって跳ね返ってきた。雪の中に自分の声が散らばっていく感覚があった。
物置の扉が、ほんのわずかに開いていた。
凛太郎は止まった。
息を吸って、扉に手をかけた。
暗闇の中に、澄江がいた。
小さな体を丸めて、棚の下に押し込まれるように座っていた。何かから隠れていたのだろう、と凛太郎にはわかった。膝を抱えて、顔を下に向けて、ぎゅっと目を閉じていた。
「澄江」
妹が顔を上げた。
声が出なかった。凛太郎は妹の顔を見て、声が出なかった。
澄江の頬から首にかけて、黒ずんだ何かが薄い膜のように張り付いていた。血だろうと最初は思ったが、違った。色が違った。人の血ではない。粘性があり、乾きかけてひび割れ、妹の白い肌に食い込むようにしてそこにあった。
「にいさん」
澄江の声は小さかった。
「こわかった」
凛太郎は物置に入って妹の前に膝をついた。手を伸ばしかけて、どこに触れていいかわからず、しかし迷いを振り切るように、両腕でその小さな体を抱えた。
澄江はすぐに抱き返してきた。
しばらく、二人はそうしていた。
物置の外から、雪の降る音だけが聞こえた。雪というのは音がないようで、積もるときにかすかな音を立てる。それを凛太郎は子供の頃に父に教わった。耳を澄ますと聞こえるぞ、と父は言った。今、たしかに聞こえた。
「澄江、立てるか」
「うん」
「出ようか、ここから」
妹を立たせて、物置から出た。台所に戻ったとき、外の光が窓から差し込んだ。冬の朝の青白い光。澄江がそれに触れた瞬間、小さく声を上げて凛太郎の袖にしがみついた。
「痛い」
「え」
「光が、痛い」
凛太郎は妹を引き戻し、光から遠ざけた。澄江の腕の、光の当たった部分が赤く色づいていた。やけどのような、しかしやけどではない赤さ。
しばらく二人は暗がりで向かい合っていた。
凛太郎には、何が起きたのかまだわかっていなかった。何が起きたのか、言葉にする術がなかった。ただ、あの黒ずんだものが澄江に触れて、何かが変わったのだということは、体でわかった。
「にいさん」
「うん」
「かあさんと、とうさんは」
凛太郎は答えなかった。
澄江はそれで察したようだった。何も言わなかった。ただ兄の袖を握る指が、少しだけ強くなった。
やがて凛太郎は動いた。
家の中を歩き、要るものを集めた。何が要るかを考えることが、今の自分にできる唯一のことだった。父の古い合羽、母が縫った布切れ、わずかな食料。澄江の体に光が当たらないよう、布を幾重にも巻きつけた。物置で見つけた炭焼き用の刃こぼれした小刀を、腰の帯に挿した。
出る前に、凛太郎は母の場所に戻った。
雪はまだ降っていた。母の上にも、薄く積もっていた。
凛太郎は膝をついた。何か言おうとした。言葉が、出なかった。
言葉の代わりに、手を合わせた。
目を閉じて、ただそこにいた。
母の名を、心の中で呼んだ。サト、と。山の村では、嫁に来た女は夫の家に名前ごと吸い込まれてしまうことが多かったが、父はいつも母を名前で呼んだ。サトという名前が凛太郎は好きだった。短くて、明るい音がした。
父の場所でも同じようにした。
膝をついて、手を合わせて、名前を呼んだ。トメという名だった。炭焼きに似合わぬやわらかな名前だと、凛太郎は思っていた。
それから立ち上がった。
澄江が布に包まれて待っていた。凛太郎は妹の小さな体を背中に負った。澄江は黙って兄の背に張り付いた。軽いと思った。こんなに軽かったか、と。
「行くぞ」
「うん」
山を下りはじめた。
雪道は深かった。凛太郎の足が雪に沈み込むたびに、ざく、ざく、と音がした。妹を背負っているから、思うように歩けない。それでも歩いた。
道の途中で、もうひとつの赤を見た。
近所の又右衛門じいさんの家の前だった。老人は雪の中に倒れていた。凛太郎は立ち止まった。
立ち止まって、妹を背負ったまま膝をついた。
手を合わせた。
又右衛門という名の老人だった。いつも渋柿を干して縁側に吊るしていた。去年の秋、澄江においしいと言わせた。
名前を呼んで、立ち上がった。
また歩いた。
さらに下ると、庄屋の倅の弥一が倒れていた。若い男だった。妻がいた。赤ん坊がいた。凛太郎は膝をついた。手を合わせた。弥一、と呼んだ。立ち上がった。
歩いた。
村を抜けるまでに、凛太郎は七度膝をついた。
名前を知っていた者には名前を呼んだ。知らなかった者には、顔を記憶した。この顔を知っている者が世界のどこかにいるはずだと思った。自分が覚えておかなくても、その人たちの名前を知っている誰かがきっといるはずだと思った。それでも手を合わせた。それしかできなかったから。
澄江は背中で何も言わなかった。
山を下り切ったとき、木々の間から空が見えた。雪雲の隙間に、かすかな青みがあった。凛太郎はそれを少しの間見上げた。
自分は今、何者になったのだろう、と思った。
炭焼きの息子だった。それはもう終わった。鬼というものが世にいることを、今日まで知らなかった。それも終わった。
ただ、妹が背中にいた。
澄江が生きていた。それだけが確かだった。
「にいさん」
澄江の声が、耳の近くでした。
「寒い?」
「うん、少し」
「もう少しの辛抱だ」
嘘かもしれなかった。どこへ向かうかも、向かった先に何があるかも、凛太郎にはわからなかった。ただ山を下りること、それだけが今の自分にできる選択だった。
「にいさんは」
「うん」
「怖くないの」
凛太郎は少し間を置いた。
「怖い」
正直に言った。
「そうか」と澄江は言った。「わたしも怖い。でも、にいさんが怖いって言うなら、少し楽になった」
凛太郎はそれには答えなかった。答える言葉を、持っていなかった。
ただ足を動かした。
雪はまだ降っていた。細かな雪が、二人の頭と肩に積もった。凛太郎は歩くたびに、背中の重さを確かめた。澄江がいる。まだここにいる。
それだけを確かめながら、山を下りた。
霧木葉の村は、雪の向こうにだんだん小さくなっていった。
凛太郎は振り返らなかった。
振り返れば、まだそこに炭の煙が見えるかもしれなかった。母が竈に火を入れていた台所の、まだ煙が残っているかもしれなかった。
だから振り返らなかった。
ただ前を向いて、妹を背負って、雪を踏んで歩いた。
足の裏が冷えていた。鼻の奥が痛かった。息をするたびに白い息が出た。それが散っていくのを見ながら、凛太郎は思った。
かあさん、とうさん。
僕はまだここにいる。澄江と一緒にいる。
行ってきます。