返却台の端に、それはあった。
雨の日の月曜日、いつもより三十分早く出勤した和泉透が最初に目にしたのは、台の上に積み上げられた返却本の山だった。休日の閉館中に投函されたものだ。背表紙を確認しながら仕分けをこなしていると、一番下に潜り込んでいた『地方自治法詳解 第九版』の分厚い背中が目に入った。
透はその本を手に取り、しばらくそのまま立っていた。
誰も借りていない本だ。
自治法詳解は参考図書扱いで、館外貸出の対象になっていない。台に出てくるはずのない本が、なぜここに積まれているのか。透は本を開いて貸出スタンプの欄を確認したが、当然のように空白だった。誰かが書架から引き抜いて、そのまま返却口に突っ込んだのだろう。深夜に一人でやることにしては地味な愉快犯だと思った。
自治法詳解を元の棚に戻しに行ったとき、透は気づいた。
三四二番台の棚の奥、ちょうど本が一冊抜けてできたすきまに、何かが落ちていた。押し込まれているというより、滑り込んでいる、という印象だった。透は指先をそのすきまに差し込み、引っ張り出した。
ノートだった。
B6判くらいの、くすんだ紺色の布表紙。角が擦り切れ、何箇所かに水のシミが滲んでいる。ページの端が波を打って、乾いた後の歪みが残っている。かなりの年数が経っているように見えた。表紙には、墨か何かで手書きの文字が記されていた。
命名録。
透はノートを蛍光灯の光に透かした。背表紙も裏表紙も、装丁に統一性がある。手製のノートではなく、何らかの工房か出版社で作られたものだろう。だが奥付は見当たらない。ページを開くと、中は罫線も方眼もない、真っさらな白紙だった。ペラペラとめくっても、どのページにも何も書かれていない。ただ、紙の質が妙に均一で、劣化の仕方が表紙のそれと微妙にかみ合っていないような気がした。透はこういうことに気づく人間だった。
命名録。
命名録というからには、何かの名前を書くためのものなのだろう。それ以上でも以下でもない。
透は一度そのノートを返却台に置いて、館内の蛍光灯のスイッチを順番に入れてまわった。月曜の朝の図書館は、ガスを止めたあとのキッチンみたいな静けさがある。昨日まで誰かがいた空間に、人の温度だけが残っている気がして、透はその静けさが好きだった。スイッチを入れるたびに一列ずつ蛍光灯が灯り、書架の間に白い光が走っていく。
開館は午前九時。現在七時四十分。
透は司書歴十一年のルーティンに従って、パソコンを起動し、返却本のバーコードを読み取り、書架に戻してまわった。自治法詳解は三四二・一番台の定位置に収まった。それから、命名録のことを考えた。
処理としては単純だ。館内で拾得されたものなので、まず落とし主がいないか確認する。ノートに氏名や連絡先の記載がなければ、一定期間保管のうえ廃棄か寄付の処理になる。透はノートを手に取り、改めて全ページを確認した。何も書かれていない。所有者を特定できる情報は皆無だ。
問題は、このノートが図書館のどの分類にも属さないことだった。
透は職業的な習性として、何かを見ると棚番号を頭の中に浮かべる。新聞なら050、地図帳なら290、料理書なら596、犯罪心理学なら326、といった具合に。デューイ十進分類法は透にとって一種の言語だった。どんな本でも、どんな資料でも、必ずどこかの番号に収まる。それが秩序というものだと透は思っていた。
命名録は何番台か。
内容が不明なので判断できない。それ自体はよくあることだ。ただ、表紙の字が気になった。命名録というのが書名なのか、用途の説明なのかも判然としない。透はノートを事務室の棚に一時保管用のトレーに立てかけ、付箋に「拾得物・処理要確認」と書いて貼り付けた。
ちょうどそのとき、事務室の引き戸が開いた。
「あら、早い」
深見怜子が傘の水気を払いながら入ってきた。館長のような肩書きはないが、図書館員の中では最年長で、透がここに入ったときからずっとここにいる人だった。六十代前半のはずだが、年齢の見当がつかない。いつも同じテンポで歩き、同じトーンで話す。机の上の素焼きのサボテンは、透が来た十一年前からそこにある。
「おはようございます」透は答えた。「返却台に自治法詳解が混じっていました」
「また」怜子は傘をたたみながら言った。驚いた様子はない。「先月もそうでしたね。同じ人かしら」
「投函口から入ってくる時点でかなり無理がありますが」
「それが答えでしょうね」
怜子は自分の席に着き、コートを椅子の背にかけた。視線が透の後ろのトレーに止まった。
「それは?」
「書架の奥に挟まっていました。命名録、と表紙に書いてあります」
「命名録」怜子はその言葉を繰り返した。声のトーンは何も変わらなかった。「誰のかわかる?」
「記載なし。所有者不明です」
怜子は少し間を置いてから、「ちゃんと確認してから処理して」とだけ言って、パソコンの電源を入れた。深追いしない。それが怜子のやり方だった。
透はトレーに目を戻した。
命名録。
何番台だろう、とまた思った。
その日は特に変わったことのない一日だった。
午前中に小学校の課外活動グループが来て、透と同僚の牧田が交互に対応した。昼過ぎには常連の老人が新聞の縮刷版を出し入れし、高校生が参考書を広げてそのまま眠った。夕方になると雨が強くなり、傘を持っていない人間が数人、入口近くで雨宿りをした。透は彼らにリーフレットを一枚ずつ渡した。図書館の利用案内だ。暇を潰す手段はいくらでもある、という意味を込めて。
退勤前に、透はもう一度命名録を手に取った。
特に理由はなかった。強いて言うなら、仕事終わりの習慣として、一時保管のトレーを確認するからだ。ただ、手に取ったとき、今朝より少しだけ重く感じた気がした。気のせいだと思った。
持って帰っていいだろうか、という考えが頭をよぎった。
おかしな話だった。拾得物を持ち帰るのはルール違反だ。透は自分がそういうことをする人間だとは思っていなかった。だが、このノートには落とし主がなく、内容は白紙で、処理は確認待ちで、どの棚番号にも収まらない。それが引っかかっていたのかもしれない。分類できないものが手元に残っているのは、どこか落ち着かなかった。
透は付箋に日付を追記し、ノートを鞄に入れた。
明日戻せばいい、と思った。
アパートに帰ってコートを脱ぎ、レトルトのカレーを温めているあいだ、透はテーブルの上に命名録を置いて眺めた。雨の音が窓の外から聞こえた。
カレーを食べ終えてから、透はノートを開いた。
一ページ目は白紙だった。二ページ目も、三ページ目も、最後のページまでめくっても、何も書かれていない。
透は少し考えてから、部屋の引き出しからボールペンを取り出した。
書いてみたらどうなるか、という発想自体が馬鹿げているとわかっていた。それでも書きたくなった理由を説明しろと言われたら、うまく答えられなかっただろう。強いて言うなら、白紙というのは透にとって不完全な状態だった。何も書かれていない命名録は、何も入っていない棚と同じだった。
原田誠。
地方議会議員、三期目。汚職の噂は絶えないが、毎回無難に当選している。二年前、公共工事の入札に関わる業者選定で不正があったと地元紙が報じたが、なぜか記事は一週間で引っ込んだ。透の母親が住む町の近くで事業をしていた建設業者と、深い関係があるという話も聞いたことがある。確かめたことはない。確かめる必要もなかった。ああいう人間はどこにでもいる。
透はその名前の隣に、消去、と書いた。
それからボールペンを置いて、ノートを閉じた。
馬鹿みたいだ、と思った。三十五歳の図書館員が、雨の夜に正体不明のノートに議員の名前を書いて、何が消去されると思っているのか。せいぜい明日の昼休みに笑い話のネタにできるくらいだ。もっとも、透には昼休みに話しかける相手があまりいなかった。
シャワーを浴びて、歯を磨いて、電気を消した。
眠る前に一度だけ、ノートの表紙を見た。
命名録。
相変わらず、どの棚番号も思い浮かばなかった。
翌朝、透が出勤すると、牧田が事務室で携帯電話を見ていた。珍しく口を開けたまま画面を眺めている。
「原田議員、死んだって」牧田は言った。
透は上着のハンガーを壁のフックにかけながら、「いつ」と聞いた。
「昨日の夜。心筋梗塞らしい」牧田は続けた。「六十二歳か。まあ、あれだけ飲み歩いてたら」
「そうですか」
透はパソコンの電源を入れた。
胸の中で何かが動いた。動いた、というのが一番正確な表現だった。驚いているわけではない。動揺しているわけでもない。ただ、何かが動いた。小さくて、静かで、それ自体は何の感情にも分類できない感覚が。
「和泉さん、顔色悪いですよ」牧田が言った。
「昨日から雨が続いているので、気圧のせいだと思います」
「ああ、わかる。俺も頭痛くて」
透はモニターに視線を向けたまま、開館前の確認作業を始めた。返却本の処理、予約資料の確認、新聞と雑誌の配架。手は動いている。頭も動いている。動いているが、その日の午前中、透は自分が何を考えているのかほとんどわからなかった。
昼休み、透は一人で事務室に残り、鞄の中のノートを取り出した。
昨日書いたページを開いた。
原田誠 消去、と書いた文字は、確かにそこにあった。ただ、そのページの紙の色が、わずかに他のページと違う気がした。触ると乾燥していて、まるでこの部分だけ時間が経ったかのような質感だった。
透はページを一枚めくった。
白紙だった。
きれいな、完全な白紙。
透は静かにノートを閉じた。それを鞄の奥に押し込んで、午後の業務に戻った。三四二番台の棚に一冊、背が逆向きに戻っていた本があったので、直した。五一六番台では本が一冊、棚から落ちかけていたので、押し込んだ。どの本も、あるべき場所にあるべき向きで収まった。
それだけのことだった。
怜子が奥の棚から出てきて、「原田議員のこと、聞いた?」と言った。
「牧田さんから」透は答えた。
「そう」怜子はそれだけ言って、自分の机に戻った。サボテンに少量の水を与えながら、何かを考えているようだった。何を考えているのかは、透にはわからなかった。
透は夕方の返却作業に戻った。
命名録は鞄の中で、静かにしていた。