朝の九時、千露楼の主事務室から墨の匂いが廊下に漏れ出した。
吾輩がそれに気づいたのは、水槽の水が微かに揺れたからである。事務室は帳場と玄関の間の廊下を隔てた向こう側にある。物理的な距離から言えば、墨の匂いがここまで届くはずはないのだが、千露楼の廊下というものは夜半になると伸びたり縮んだりする傾向があって、朝の気配の伝達についても独自の法則に従っているらしい。吾輩は長年この法則を観察してきたが、まだ整合性のある説明を見つけていない。千露楼に整合性を求めることが、そもそも方法論的に誤っているのかもしれない。
それはともかく、墨の匂いである。
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