その夜、千露楼の水温は下がらなかった。
浴場が閉まった後も、廊下の石畳は昼間の熱を手放さず、湯気は低く漂って壁を濡らし続けた。吾輩の水槽の中でも、水はぬるく、どこか落ち着かない温度を保ったままでいた。季節の問題ではない、と吾輩は判断した。千露楼という建物が、今日起きた何かを、まだ消化しきれていないのだ。建物とて、無機物とは限らない。この湯屋が長年の間に蓄積してきたものが何であるか、吾輩は詳しく知らないが、少なくとも記憶くらいは持っているだろうと推測している。
颯斗が事務室を出たのは、夕刻の鐘が二つ鳴った後だった。
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