Chapter 1: The Notebook No One Was Supposed to Find

雨が降り始めたのは、帰り道の半分を過ぎたあたりだった。

柏木誠は空を見上げ、それから傘を持っていないことを思い出し、それから傘を職場に忘れてきたことを思い出し、それから傘を職場に忘れてきたのは今日が初めてではないことを思い出した。この三段階の記憶回収プロセスに要した時間、約四秒。その間に雨粒は見事な本降りへと育っていた。

商店街のアーケードに駆け込みながら、誠は軽く舌打ちをした。三十四歳にもなって、と内心で呟いたが、三十四歳の傘の携帯率がどの程度なのか確かめる手段を誠は持っていなかった。図書館員として言うなら、そういうデータは意外と文献に載っていない。

アーケードの端で雨粒の弾道を眺めながら、誠はスマートフォンで天気予報を確認した。降水確率六十パーセントと書いてあった。六十パーセントということは四十パーセントの可能性で降らなかったはずで、自分はその四十パーセント側に賭けて負けた人間だということになる。ギャンブルの才能がないことは十代の頃から知っていた。

雨は止む気配を見せなかった。

商店街の外れに、誠がいつも素通りしている古書店があった。「栞堂」という名の、看板の文字がすでに半分消えかけた店だ。ガラス戸の向こうに黄色い光が見えた。誠は、まあ雨宿りぐらいはいいだろう、と自分に言い聞かせて引き戸を開けた。

本の匂いがした。

正確に言えば、古い紙と、誰かが昔こぼした何かと、埃と、かすかなカビの匂いが混然一体となった、古書店にしかない特有の空気だった。図書館にも本の匂いはあるが、あれは管理された匂いだ。こちらは放置された匂いで、その違いは誠には明確にわかった。

「いらっしゃい」

カウンターの奥から声がした。七十代と思われる小柄な老人が、老眼鏡の上から誠を見た。

「雨宿りです、すみません」

誠は正直に言った。嘘をつくことが苦手というより、嘘をつく動機を持ちにくい性格だった。

「ゆっくりどうぞ」と老人は言って、また本に目を落とした。

店内は思ったより奥行きがあった。本棚が迷路のように立ち並び、誠は自然と奥へと引き込まれた。職業病というのは恐ろしいもので、本の背表紙を眺めると自動的に分類が気になり始める。文芸、歴史、理工、料理、その隙間に脈絡なく挟まった農業全書とプロ野球名鑑。司書の目には棚の論理的構造が最初に飛び込んでくる。栞堂の棚の構造は、論理的というよりは考古学的だった。層を成した時代の堆積物として本が存在している。

一番奥の棚の前で、誠は足を止めた。

文庫本が横倒しになった山の陰に、何かが見えた。細い背中。表紙も題名もない、ただの手帳だった。誰かが棚と壁の隙間に差し込んで、そのまま忘れていったような場所にあった。水に濡れたらしいアンソロジーが半分覆いかぶさっており、もし誠が几帳面に棚を直そうとする性分でなければ、気づかなかっただろう。

手に取った。

薄い。ページ数は百もないだろう。表紙は黒でも白でもない、何とも判定しにくい色をしていた。日焼けなのか元からなのか、判断がつかない。開こうとして、一瞬躊躇した。

古書店の本棚の奥で誰かの手帳を開くのは、どうかという気がした。

どうかというのは、プライバシーの問題だ。手帳には個人の記録が入っていることがある。住所、電話番号、日記の断片、誰かへの手紙の下書き。開けてしまえば、自分が知るべきではないものを知ってしまうかもしれない。

けれど誠は開いた。本に対する本能的な好奇心は、倫理的配慮よりわずかに早く動く。そういう人間だった。

最初のページは空白だった。次のページも。その次も。誠はぱらぱらとめくった。どのページも白い。紙は上質だった。少し黄ばんでいるが、質感がある。こんな白紙の手帳をわざわざ古書店の棚の奥に置く意味がわからなかった。

最後のページから三枚目、ようやく文字があった。

縦書きで、几帳面な筆跡で、こう書いてあった。

「名前と顔を思い浮かべながら、この帳面に名前を記せ。その者は七日のうちに、自らの罪の重さによって押し潰される」

それだけだった。

誠はその一文を三回読んだ。

それから店主のところへ戻って、「この手帳はいくらですか」と訊いた。

老人は老眼鏡を額に上げて手帳を眺め、「それは値段がついてないな」と言った。「百円でいいよ。棚の整理ができてなくて」

誠は財布から百円を出した。後で考えると、この時すでに自分の中で何かが決まっていたような気がする。でも当時は、ただ職業的な反射だと思っていた。書き込みのない手帳を古書店の棚に放置しておくのは、なんとなく惜しい気がした。それだけのことだった。

雨は少し弱まっていた。

誠は走れば帰れる距離だと判断して、手帳をバッグに押し込み、栞堂を出た。

アパートに帰り着いた時、誠のシャツは半分濡れていた。

鍵を開けながら、廊下の電球がまた暗くなっていることに気づいた。管理会社に連絡しようと思ってもう三週間が経つ。リマインダーを設定して、リマインダーが鳴って、後でやろうと思って、三週間経った。そういうことが誠の生活には多かった。

部屋に入ってまず目についたのは、窓辺の植木鉢だった。

ポトスが一本、土が完全に白く乾いた鉢の中で、葉を半分黄色くして静かに存在していた。存在していた、という表現が正確かどうかは微妙なところだが、少なくともまだ死んではいなかった。誠はそれを確認して、「あとで」と声に出して言った。植物に向かって「あとで」と言うのが正しい行動かどうかについても、誠は深く考えなかった。

インスタントラーメンを作った。

袋麺を鍋で茹でる、という工程を誠は几帳面にこなした。カップ麺より袋麺を選ぶのは、茹で加減を自分でコントロールできるからで、それは本の整理と同じ感覚だった。自分で分類できるものが好きだった。

食べながら、テーブルの上にバッグをひっくり返した。仕事の資料と一緒に、手帳が出てきた。

表紙を眺めた。やっぱり何も書いていない。

ラーメンのスープを飲みながら、また開いた。

「名前と顔を思い浮かべながら、この帳面に名前を記せ。その者は七日のうちに、自らの罪の重さによって押し潰される」

二度読んで、誠は笑った。

笑ったのは、本当に可笑しかったからだ。そういう仕掛けの小説だったら面白いかもしれない、と思った。古書店で見つけた謎の手帳、書いた名前の人間に災いが降りかかる、という設定は確かに使い古されているけれど、出来のいいものを読んだことがある気がした。タイトルが思い出せなかった。

でも、小説ではなかった。

一行だけ書かれた、白紙の手帳だった。

誠はラーメンの丼を端に寄せて、ペンを出した。

何の気なしに、という感覚だったと後で思う。あるいは、何の気なしにという感覚に非常に近い、別の何かだったかもしれない。

尾形健二。

書く前に、顔を思い浮かべた。

六十代、でっぷりとした体型、いつも高そうなスーツを着ていた。笑顔が丁寧すぎて、笑顔の奥に何もない人間の顔だった。十五年前、父親の住んでいた商店街を一棟ずつ買い占めて、全部壊した。再開発と呼ばれたが、再開発された場所には結局何も建たなかった。父親の小さな時計修理店は、ビニールシートと重機と、書類上の手続きによって消えた。父親はそれから三年後に死んだ。

誠は万年筆を手に取り、丁寧な字で書いた。

尾形健二。

書き終えて、手帳を閉じた。

笑えると思っていたのに、不思議なことに笑えなかった。

それよりラーメンのスープが冷めていた。飲み干して、丼を洗った。風呂に入って、歯を磨いた。布団に入った時には、手帳のことはほぼ忘れていた。本当に、ほぼ忘れていた。

五分後に思い出したのは、ポトスのことだった。

誠は布団から出て、台所で水を汲み、窓辺の鉢に注いだ。土が水を吸う音がした。葉の黄色い部分は水をやっても戻らないが、まだ緑の部分は何とかなるかもしれなかった。

「ごめん」と誠は言った。

植物に謝るのが正しいかどうかについても、やはり考えなかった。

窓の外では、雨がまだ降り続けていた。

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