向坂龍之介という人間が忘我の湯に現れたのは、千花が湯治場に来て三日目の夕刻のことだ。
わたしが「夕刻」と言うのは、空が橙と灰の混合色を呈していたからであって、時計を持たないわたしに正確な時刻を述べる資格はない。もっとも、この建物の中では時刻という概念自体がやや弾力的なので、さほど問題ではないとも言える。いずれにせよ、その男が葦を積んだ荷車とともに表の大路を曲がってきたとき、わたしは門柱の影越しに彼を観察した。三百年の眼力を持つわたしが最初に気づいたのは、荷物がないことだった。
荷車に積んであるのは他人の葦だ。自分の荷はない。
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